プロフィール

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井本史夫

井本史夫(いもと ふみお)
横浜市青葉区にある井本動物病院の院長先生。1945年、兵庫県三木市生まれで、帯広畜産大学卒。3歳よりネコと寝起きを共にし、小学生から中学生のころの泳ぎ相手はイヌ。 大学時代はアパートでウサギを飼育、研究室ではニワトリの世話をし、走っているウマの応援が好きな虎ファンと、まさに動物づくしの人生を送っている。NHK教育テレビ「趣味悠々 犬と暮らしを楽しもう」、NHKBS2「ペット相談」にレギュラー出演中。
井本動物病院HP
http://imoto-ahp.com/

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道に迷ったとき

山を下りていて道に迷ったとき、そのとき取るべき行動は、苦しくてももう一度山に登ることです。

山によっては沢が幾筋も流れていて、山頂からの最初の一歩の踏み出しによっては思ってもみないところに行く可能性があります。

せっかく頂に立つことができても、ガスなどが出ていて方角がつかめないときに、そうなる可能性が大です。

小さな山ならいざ知らず、ちょっと大きめの山であれば、どの沢筋を歩くか、しっかり把握していないと、山の中で迷子になってしまいます。

人の住む町で迷っても、誰かに聞けばいいのですが、地図と磁石だけが頼りの山の中では、特に、道のない山を歩くときは気をつけなければなりません。

人生も似たようなもんです。

迷った時、みえないままにそのまま突き進むのでなく、もう一度原点に戻るのがかえって早道で、心も落ち着きます。

少なくとも、ワタクシの場合はそうです。

弱すぎるのか、我が念力

ワタクシ、「念」をかけるのは、だいたい、朝です。

・・・・ムムムムッツpunch

人とすれ違うときや電車に乗っているときです。

歩きながらアクビをしたり、座席に座ってアクビをしている人をみかけると、その人に向かって念を送ります。

「ハズレロ、ハズレロ、・・・・・・・」

そうです。公衆の面前で恥ずかしげもなく大アクビをしている人の顎がはずれるように、念を送っているのです。bomb

しかし、いまだに成功しません。pig

ワタクシが念を送っている間に、アワワワワッツ となった人を見たことがありません。

念力の力が弱いのだと思いますが、残念なことです。

非常に残念です。sad

しかし、もし、アクビをしているときに顎がはずれたら、ワタクシの念力のせいかもしれませんので、そのときは、ぜひご一報ください。

帰って来たヨッパライ

加藤和彦のこの曲、

自分も大学生で、ちょっとヤサグレていて、いつも地下の「ジャルダン」という酒場に飲みに行ってた。・・・・・そこで何回も何回も聴いた・・・・・と思う。

なかなか強烈で、「同じ大学生なのに、俺はこれでいいのか・・・・・」なんて思ったりして・・・・・

そのあとの、「イムジン河」は、レコードの発売が中止になったというのに、どうして知っているのだろう・・・・・・。

「悲しくてやりきれない」も歌える。

僕の中の「加藤和彦」は、この時代。

しかし、加藤和彦は、僕の数少ないライブで聴いた人のひとり。

帰省中だったと思う。

神戸の国際会館(まだあるのだろうか)で、通りがかりにダフ屋から切符を買って入ったような気がする。

当然、北山修・はしだのりひことともにフォークルとして出演していた。

高石ともやがリーダーぽくって、岡林信康や中川五郎がまだデビューしたてという歌い方だった。

それはそうと、フォーククルセイダーズなのかフォーククルセダーズなのか。

加藤和彦は、遺書を残しているという。

棺のところに置いてあって、みんなが読めるようになっていたそうな。

読んでみたい。

合掌

悪夢ダッタゼ、東京五輪音頭

ま、次の次のオリンピックは、リオに決まったということで・・・・・おめでとうございます。

今を去ること45年前

日本では、東京でオリンピックが開催されるということで、どこもかしこも大騒ぎでした。

ワタクシは、そういう世の中と関係なく、(大学に合格したにもかかわらず別の)大学を受験すべく、予備校に通っていました。夏休みなどはもちろんありません・・・・

ところが、世の中は「五輪」一色で、小学校などはミナミハルオさんの「五輪音頭」で盛り上がり、日曜も大きな音を流しながら、踊っていました・・・・・たぶん、運動会の踊りのための練習もあったのでしょうが・・・・。

そのため・・・・勉強に集中できず・・・・・・

オリンピック → ミナミハルオの東京五輪音頭 → 頭が痛い という図式ができあがってしまったのです。

今回も、東京に決まっていたら・・・・・・なんたら音頭なんかをガンガンかけていたのでしょうか。

45年前の悪夢がよみがえらなくて・・・・・よかった

タイムスリップしたゾ~

昨日、静岡県のF市にいる友人を訪れました。

で、料亭(チガウカ)の予約の時間がまだあるからと、案内されたのが件の飲み屋街beer

残っているところには残っているのですね

なんともレトロな・・・・

学生時代によく飲みに行った★▽小路そのものです。

小路の真ん中にトイレがあったりして・・・・・

写真では看板が光ってしまっていますが、お店の名前も1960年代・・・・

たまには、ちょっと遠出をしてタイムスリップするのもいいですよ。

090926_174913

夏の日の思い出(8月14日)

あ、気がつけば8月も半ば・・・・

今頃の1週間は、ヤバイと宿題のことが気になりながらも、遊んでしまう時期ですね

大学になると、宿題から解放されますので・・・・のびのび遊べたか・・・と思うと、そうは問屋がおろしません。

大学2年の夏休み。

次の年に、大学山岳部{}のメンバー4人で、ボルネオに行こうと計画していましたので、その前年にあたる年は、必死になってバイトに明け暮れました。

ウイークデイは、朝から夕方まで、帯広の市の水道局の穴掘り。

漏水しているお宅に行って、水道メーターのそばを掘り起こし、漏水個所を直す という作業のうちの穴掘り担当のバイトです。

夕方になると、「自分の家庭教師」と「人から夏休み期間中だけ請け負った家庭教師」宅に一日おきに行きました。

余計なことですが、お風呂に入らせてもらい、夕飯をいただき、それから、家庭教師

今の世の中じゃ想像もつかないでしょうが・・・・。

もっとも、そのころでも、東京の連中にはオドロキだったようです

早い話が、朝から晩まで、働きづくめ・・・・

もちろん、夏の山行も10日ぐらいはしたはずですが、こちらの方は、うっすらとしか憶えていません

ま、夏のひと月で三〇〇〇〇円くらい貯めることができ、目標の一〇〇〇〇〇円の目途をつけることができたのでした

あ、そうだ。

ボルネオ行のメンバーと一緒に、東京の船会社や商社を訪問しました。

翌年にボルネオ行の貨物船に乗せてもらえるようお願いして回ったのです。

そのころの東京は暑かった・・・・。

夏が来れば思い出す~(8月12日)

夏休み真っ盛り

楽しいだろうなあ・・・・夏休み

夏休みがない暮らしになって・・・40年

夏休みといえば・・・・まず、思い出すこと。

中学校の1年の宿題に、「日記」というのがあったのですが・・・

「中学生になってまで日記かよ」と思ったんでしょうねえ。

それに、小学校のときからの夏休みの習慣・・・初めの1週間と最後の1週間で宿題をやる・・・・で、まんなかの4週間はな~~~もしない

そんなわけで、宿題なんて頭からどっかに飛んでった

しかし、思い出さなくてなならない日はいずれやってきます

9月1日

なにを思ったか、ノートの最初の3ページに夏休みの最初の3日のあることないこと、ノートの最後の3ページに、8月29日・30日・31日のあることないことを書いて、「日記」として提出しました

他の宿題の中に挟んで・・・そ~~っと。

数日後、担任のK先生に呼び出されました。

「君、これは日記とは言えません」

K先生、お元気でしょうか。

ああ、甲子園

といって、も甲子園を目指した高校球児だったわけではありません。wink

中学時代に膝の病気になって、高校時代は、文化部系にいましたので。despair

ただ、文化部系の、新聞部にいました。

夏の大会の地区予選は、・・・・兵庫県ですから、籤運がよければ甲子園で行うこともありました。

そのときは、チャンスとばかりに、甲子園球場の記者席に座ったり、ベンチの周りをうろうろしたり・・・・。

応援のみんなは、アルプススタンドにいたような気がします。

放送部は・・・・、放送席で録音していました。

今はない西宮球場にも行きました。

しかし、やはり、甲子園球場の記者席の方が、印象に残っています。happy01

興福寺五重塔

 先日、上野の国立博物館に、興福寺阿修羅展を観に行きました。

 平日の4時ごろにもかかわらず、50分待ちの看板が出ていました。

 実際は30分待ちで入館できました。

 館から出てきた5時ごろは、即入館できる状態でした。


 で、「題名が違ウダロ」と思われるでしょうが、イインデス。

 ワタクシの興福寺の思い出は、なんといっても五重塔です。

 小学校2年のときに、あの五重塔の上まで登りました。

 町の古文書の整理に来られていて実家に寝泊まりされていた、某大学の史学の教授のお蔭です。

 奈良の有名な寺院の裏から裏を案内していただいたのです。

 阿修羅像も見たはずですが、憶えていません。

 しかし、興福寺の五重塔に登ったときの感覚が、いまでも思い浮かぶことがあります。

 子どもの頃の経験は一生の宝です。

 

帽子嫌いになった入学式

 それは半世紀以上前の、小学校の入学式のことでした。

 小学校の講堂で、入学式に退屈したワタクシは、買ってもらったばかりの帽子をいじっていました。

 学生帽のあご紐を伸ばそうとしていたんです。

 あご紐をあごにつけた帽子姿が、かっこよく思えたんですね。

 ところが、うまくのびないので力を入れたとたん、あご紐を止めてある留め金がパーンとはじけて、ころころと入学式の行われている床を、無情にもころがっていくではありませんか。

 ワーーーーッツ

 式が終わって、留め金が転がっていったあたりの椅子の下を探しましたが、みつかりません。

 その日以来、帽子全部が嫌いになり、小学校6年間、ほとんど、帽子をかぶらなくなりました。

 運動会の紅白の帽子も記憶にありません。

 小学校時代の写真に、帽子をかぶっている写真はないと思います。

 記憶にあるのは、麦藁帽子だけです。でも、イヤイヤかぶっていたような気がします。

忠猫はいづこ

え〜、先日の日曜日。

 NHKBS2でやっている「熱中夜話」
 http://www.nhk.or.jp/nettyu/

 の収録がありました。

 今回は、猫cat編 です。

 司会は、ビビる大木さん、田丸麻紀さん。
 ゲストは、蝶野正洋さん、清水ミチコさん。

 + 猫ファン30名。

 ワタクシは化け猫の話をしたかったのですが、若い方にはなじみがないようで・・・・。

 このブログを読んでくださる方も、そうなんでしょうか。

 入江たか子さんの化け猫映画を見て育った身としては、さびしい限りです。

 そんなこんなを話していたら、若い方に誤解があるのに気付きました。

 化け猫が人間にいたずらをするのだと。

 違います。

 うらみを持った人が非業の死をとげた場合、その人の飼い猫が、その人catになってその恨みをはらすのです。

 いってみれば、忠猫catです。(チューネコと読んでください。けっしてタダネコとはいわないで)

 好きなんだけどなあ、猫が恨みをはらす話。

 どなたか、いませんか。「私の猫は、きっと、恨みを晴らしてくれる」って忠猫を飼っている人sign01

 あ、そうだ。

 それで、その放送日時ですが、NHKBS2で、11月27日(木)と12月4日(木)の24:00〜24:39 です。

 

 

秋祭り

 秋祭りの季節です。秋ですから・・・・。

 ワタクシには、やはり、故郷の秋祭りが一番ぴんときます。

 とはいっても、ずいぶん長い間みたことがありません。

 その間に、お祭りの日が、変わっていました。

 昔は、確か、10月15日・16日の二日間だったような気がします。その間、学校は一日は午前中だけ、次の日は休みだったような・・・・。

 それが今は、体育の日の前の土日とかになっていました。

 http://mikimatsuri.hp.infoseek.co.jp/oomiya.htm

 地方局が、中継をしているそうですから、結構、観光客も来ているかもしれません。

 腹に響くような太鼓の音が・・・・、大宮さんに上る85段の階段を担ぎあげる勇壮さ・・・・、

 子供のころに戻りたくなります。

 

 

大学同期会

先週の日曜日、大学の同期会でした。

小さな大学ですから一学科ではなく、全学科が集まります。

卒業生170名、出席者40名 。
出席率はけっこうよいのではないでしょうか。

私のクラス(獣医学科)は40名中7名亡くなっていますから、その計算で行くと全学年で30名ぐらいは亡くなっていると考えられます。

出席率の多い理由ですが、

小さい大学ですから、だいたい顔見知りです。

それに学生の半数以上が学寮に住んでいましたから、もっと接触する密度が濃いわけです。
学寮に住んでなくてもアパートなんかに固まって住んでいましたし。

ちなみに、ワタクシの住んでいたのは、通称「ハーレム」
理由は、ご想像にお任せいたします。

他に、「ドブネズミ部落」とか「八線グループ」とか・・・・。

ま、先輩・後輩が密度濃く住んでいました。

楽しい思い出ではあります。

北杜夫先生の「ドクトルまんぼう青春記」のような感じの学生時代でした。


なつかしきかな 蚊帳

 アフリカで日本の蚊帳がオオモテって記事がでています。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20080826-00000002-dol-bus_all

 マラリアの予防は、まず、蚊に刺されないこと、ですから。



 ワタクシも、昭和30年代の前半までは、夏は蚊帳の中で寝ていましたね。

 すそをめくって上手に入らないと、蚊が蚊帳の中に入っていたり・・・。

 猫catも上手に出入りをしてました。

 蚊帳は、夏につきものの怪談の雰囲気もでますよね。

 特に三遊亭円朝の「怪談牡丹燈籠」には、蚊帳がないとね。 

ひょっとしてオタクかも

 マンションの近くに、新幹線bullettrainと横須賀線trainが並んで走っています。それと一部分が並行して南武線train、南武線と直角になる形で東横線trainがあります。

 朝、目が覚めた時に、電車の行き来にどうしても目が行きます。train

 特に、新幹線は東京駅や品川駅を出発して、何分後に多摩川の鉄橋を通るのか・・・・ということに興味がわいて、時刻表を買ってしまいました。

 新幹線がどれくらい正確なのか、なんてのを、朝の起きぬけにマンションの部屋から調べるワタクシは、オタクの要素たっぷり・・・なんでしょうねえ。wink

 新幹線の調査が終わっても、JRと私鉄の比較もできるぞ。


納涼音楽会・・・・七夕の思い出

 明日は七夕ですね。

 七夕に夜空を見上げなくなってから、ずいぶん、経ちました。

 記憶の中にある、天の川は、いつのころの思い出でしょうか。shine

 ネパールや内モンゴルで見た満天の星とは違う、故郷の夜空の天の川のはずです。shine


 七夕といえば、

 小学校低学年のころですから、昭和20年代後半ですが、

 七夕の時期になると、小学校の行事で納涼音楽会noteなるものをやってました。

 夕方から、小学校の講堂で開かれました。全校生徒の人数が、2000人を超えたいましたので、二夜に分かれてやっていた記憶があります。それでも、会場の講堂は、保護者で満員。

 ただ、高学年になってもやっていたかどうか・・・は、覚えていません。

 

房総半島横断・ぶらり鉄道の旅 その2

 外房の大原からいすみ鉄道に乗って・・・・・

 盛りは過ぎたとはいえ、線路は桜と菜の花がチラホラする中を走っています。train



 のどかな田園風景が続きます・・・・



 菜の花をアングルの中に入れたくて・・・

 車両の中からの写真にしては、ちょいとアングルが低すぎるんではないか・・・という疑問をお持ちの方。 さすが、スルドイ。happy01

 車両を降りて、線路をポコポコ歩きながら、写真を撮ってみました。wink

 気持ちいいですよ。sign01

 車両が来ないことは、時刻表から確認済みです。smile

 子どものころ、線路の上をよく歩いていました。ひと駅離れたところのセミを捕るために歩いたことが多かったのですが・・・・、なんか好きなんです、線路の上をポコポコ歩くのが・・・・。

 (これから、いろんなローカル線の上を歩いてみようと思っています)

 廃線も、なんとなく物悲しくて・・・好きです。

 


 線路沿いの 桜、菜の花、レンゲ ・・・・・

 レンゲ畑も好きです。

 レンゲの茎は強くて、何本も束ねて、まあるい花飾りにして頭の上に冠のようにのっけて・・・て、遊び・・・というか、女の子からのプレゼントribbon・・・もらいましました。
 タンポポのはすぐにフニャとなりますが、レンゲのは長持ちした記憶があります。

 こういう場所を歩いていると、遠い昔に歩いて戻っているのではないかと錯覚します・・・・shine

房総半島横断・ぶらり鉄道の旅

4月の21日のことですから、まだ、ひと月にはなりませんが、なんかずいぶん前のことのように思います。

休みの日、ふと思い立って、いすみ鉄道と小湊鉄道に乗りました。

横浜からJRで横須賀線→外房線。大原まで行って、そこから房総半島横断・鉄道の旅への出発です。



いすみ鉄道の車両は、沿線の菜の花がウリなんで、黄色にしているのんでしょうねえ。ま、ご愛敬といったところですが、こういう色って難しいですよね。きれいでないと、かえってみすぼらしくなります・・・・。



車両は一両で、運転手さんがひとりのワンマン運転です。

写真にはだれも写っていませんが、4・5人のオバサマが乗っていました。あと、ジイサマがひとり。


さあ、出発です。




なまたまご が食べられなくなった原因

 ヒロコさんの「たまごかけごはんに何かける?」
http://blog.smatch.jp/nishihara/archive/758

 で思い出したのですが・・・・・

 ワタクシ、小学校6年生から高校が終わるまで、たまごかけごはん、というかなまたまごを食べませんでした。・・・・というより、食べられなかったのです。

 子どもの時は、好きでしたし、家で鶏を飼っていたころは、卵を採りに行く役目もしていました。

 きっかけは・・・小学校時代に、毎年、夏休みになると母の実家の岡山に行っていましたが、そこでの経験のためです。(2週間〜1ヶ月)

 食中毒とかそんなことではありません。
 祖母が孫(ワタクシ)のためを思って、毎日、毎日、なまたまごを出してくれたのです。農家で鶏が庭先にいましたので、新鮮でしたが・・・・。

 毎日となるとちょっと・・・・とも言えず、最後の方は我慢して食べていたのでしょう。
 家に帰って以後、なまたまごとたまごかけごはんを6年の間、まったく食べませんでした。

 嫌い・・・というより、食べられない食物になったのです。

 大学に入って、自炊をしだすとそんなことは言っておれません。
 急いでご飯をかけこまなければならないときには、醤油だけというのも寂しいので、「やってみるかとたまごかけごはん」ということも出てきまして・・・・。

 そのうち、バターを入れるようになって回数が増え、普通に食べるようになり、現在に至るということになりました。

 ま、大人の現在では、食べないものはひとつだけです。

 それは・・・・つづく

 

ノンちゃんは雲の上に

 「ノンちゃん雲に乗る」の作者の石井桃子さんが、お亡くなりになりました。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20080403-00000066-san-soci

 「ノンちゃん雲に乗る」は、子どものころの愛読書のひとつでした。

 たしか、四谷から氷川(神社)さまの近く(国分寺の方じゃなかったかと記憶しているのですが)に引っ越しての物語でした。

 ワアワア泣いているところから物語が始まったと思うのですが、身につまされた思いがしました。

 ワタクシは姉一人に兄二人の末っ子でしたから、妹が欲しくて、ノンちゃんみたいな妹が欲しくてたまりませんでした。

 映画は、鰐淵春子さんがノンちゃん役で、お母さん役は原節子さんのはず。

 映画を見た時は、普段見る小学校の同級生とのあまりの差にびっくりし、一方では胸をときめかせながらも、「こういう気持ちheart04は口に出してはいけないんだ」と固く決心したのを覚えています。

 ノンちゃんは、ワタクシの女性観の何分の一かを形作りましたので、石井桃子さんにはお礼を申し上げたいと思います。 

 合掌

 

 

 

銀河は彼方に

 ブルートレインの寝台急行「銀河」が昨夜の列車で廃止ってニュース・・・・けっこう流れていましたね。train

 ワタクシの記憶の中では、銀河は神戸=東京 です。shine


 東京に一番はじめに来たのが、1955年(昭和30年)8月。

 小学4年の夏休み。

 叔父の家に10日間遊びに来たのですが、そのときに、銀河に乗ってきました。

 ブルートレインでは、さらさらなくて、

 寝台でもなくて、三等席で座って寝ました。

 銀河に乗ったのはそのとき1回だけですが、すごくいっぱいの思い出がつまった、列車の旅でした。

 ★東海道本線は、京都〜米原が電化されてなくて、蒸気機関車の付け替えがありましたね。・・・電化されたのは1956年だそうです・・・

 ★丹那トンネルの長さに感激しましたね。
 それまでに経験した最長のトンネルは、山陽本線の船坂トンネルでしたから。 

 ★小学校の国語の教科書に
「ヨコハマ〜、ヨコハマ〜 と拡声器の声。お勤めに出る人、鞄を下げた学生さん達で横浜駅はにぎわっている。・・・・」とあったのですが、そのままの光景でした。・・・・なんでこんなこと覚えてんだろう・・・・

 ★叔父の家は、そのころは大田区にありましたから、品川駅で降りた方が近かったのに、無理を言って東京まで乗りました。

 他にも、人生のスタートになったような経験や思いもいっぱいしました・・・・そのスタートが銀河です。happy01


きれいも今日まで?

 今年のお正月の富士山は、きれいでしたね。fuji
 朝日の富士山はみなれているのですが、夕日の富士山・・・というか、夕焼けは仕事中でみられないことが多いので、感激しました。それが、何日も続くのですから・・・・。ほんとにきれいでした。

 でも、交通量が少ない今日まで・・・ではないかと思います。
 ほんとに遠くまで・・・伊豆の山々まで見えましたから・・・。


 早めに、悲しいことをこのブログに吐き出しておこうと思います。sad

 ひとつは、
 卒業した中学校schoolがなくなります。

 http://www.edu.kobe-u.ac.jp/hudev-akashijh/

 おそらく、国立大学が特別法人になったことの影響です。兄弟校がひとつになるため、その無くなる方になってしまったのです・・・。
 校舎は昔の校舎ではないですし、完全に無くなるのは6年後ですが、そういうニュースを聞くだけで、悲しいです。
・・・・・なくなる前にクラス会(同期会)をやって、みんなで泣くんだろうなあ。

 もうひとつ、
 4月1日に廃線になる鉄道

 http://tnote.s40.xrea.com/KMtop.html

 http://tnote.s40.xrea.com/KMc00.html

 中学3年生から高校3年間の4年間を、通学のために乗っていた、鉄道です。赤字路線 → 第三セクター → 廃止 という典型をたどっています。
 この鉄道には、悲しい思い出がいっぱいあるのですが、懐かしい思い出でもあります。

 

雪はくずれます

 あそこで・・・・遭難か・・・・

 北海道の十勝岳連峰の上ホロカメットク山での雪崩による遭難のことです。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20071123-00000038-mai-soci

 学生時代、毎年12月の下旬に十勝岳を中心に冬山訓練の合宿をしていた者にとっては、ひとごとではありません。

 冬の上ホロカメットク山も3回は登っています。

 実際の現場がどこなのかわかりませんが、どんな雪崩でも恐ろしいものです。

 林の中の斜面をスキーで横切っただけで、足の下から雪が雪崩れて、巻き込まれたことがあります。幸い、大きくは雪崩ずにすぐに止まったので助かったのですが、崩れた雪の中から這い出るのは、一苦労でした。

 今回、遭難された方の年齢層は私と同じような方々で、慎重に行動されたと思いますが、残念です。

 

3億円では、ちょっと・・

 ・・・dollar足りないって、ミエを張ってみたいところですが、夢の話にミエを張ることもないわけで・・・・

 3億円の住宅ですよね。happy01

http://www.hawaiianjoyrealty.com/condo/kahala.htm

 ワタクシが今までに見た中で、3億円クラスで「エ〜ナア」と思ったのは、やはり、ハワイはホノルルのカハラ地区の家 ですかねえ。

 ダラスの金持ちの住んでいるところは、3億クラスじゃ買えないようで、残念だったなあ・・・ミエを張りました

 カハラの家にはチョット触手が動きました・・・ってまたミエを張りました

 イヤ、マア、チョイト、ブラット、入ってみたんですがね・・・・。
 カハラに並んでいる家にはそれぞれ味がありました。

 ま、みなさん、街並みだけでも、ご鑑賞ください。

http://www1.odn.ne.jp/~ccf96160/1-beautiful-scenery-2.htm

 でも、年に1%くらいの不動産所有税みたいなのがかかるようです。
 3億円の1%・・・300百万円・・・シャンビャクミャンイエンshock

 コレ、予算以外は自分持ちですか?

 でも、みなさん、住宅だけに3億円お使いではないようですし・・・。

 ヤッパリ、house買うのやめておこう

 ア〜〜〜〜〜、ツカレタpig

名前を変えよう

 スマッチ編集部の花子さんが、無理な読み方の子どもの名前 をアップされてます。中で紹介されている呉智英さんのコラムもおもしろい。

http://blog.smatch.jp/smatch/archive/318

 名前についてですが

 ワタクシ、子どものとき、どうして名前が途中で変えられないのだろう と思っていました。

 子どものときに読んでいた本の影響だと思います。

 ・・・牛若丸が九郎義経になりますし、日吉丸は藤吉郎になって、その次に秀吉になるというように、成長するに従って名前は変わっていってもいいんじゃない・・・って思っていました。
 秀吉なんて苗字まで変えています。

 三男だったので、三郎○○って名乗った方がいいだろうって思っていました。

 今は、パソコンではハンドルネームを使いますし、考えてみれば 高校時代から文章を書くときはペンネームを使うことがありましたが・・・。

 しかし、ほんとはですね、子どものときの名前、成人したときの名前、気が向いたら自分で付け替える名前、隠居したときの名前って、どんどん自分の変化とともに変えることができればいいなあって、今でも思っています。

 当然、戸籍上の名前を変えるんですよ。


 そーそー、スマッチ花子さんにトラックバックすればいいのですが、PCを替えてから、なぜかできないんです。不思議です。

 

人工呼吸の思い出

 突然意識を失って倒れた人を蘇生させるための応急手当は、心臓マッサージだけで効果があり、従来勧められてきた人工呼吸は必要ないことがわかった・・・というニュースがあります。

 http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20070927-00000049-mai-soci


 みなさん、人工呼吸をしたことありますか。

 ワタクシ、18か19歳のころ、溜池でおぼれた子どもを引き上げ、したことがあります。

 ワタクシの育ったところは、溜池の多いところで、身近なところで泳ぐといえば溜池でした。

 溜池で泳ぎ終っての帰り道、別の溜池で、子どもたちが騒いでいましたので近寄ってみましたら、子どもがおぼれたということでした。

 そこで、もう一度、海パン姿になり、子どもを探しました。
 池の底沈んでいる子どもを引き上げ、心臓マッサージと人工呼吸を開始しました。

 心臓の拍動は感じられませんでした。

 水を吐かせ、心臓マッサージと人工呼吸をしている間に、体に紫斑が現れてきました。しかし、駆けつけてきた母親や妹と思われる女の子に何も告げることができず、やり続けました。

 30分くらい経ってから、医者が来ましたので、交代してもらいました。

 
 このときの経験は、私の人生観に大きく影響したと思います。

 
 

風呂にもいろいろあるようで〜

 おけ風呂というのがあるそうですね。
 風呂桶じゃないんですよ、おけ風呂。

 http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20070902-00000004-cnc-l25

 滋賀県は東近江にあるそうです。

 ワタクシは、こどものころ、電気風呂spaに入っていました。

 オヤジが、電気コンロのコイルを這わせた板を手製で作りまして、その板を水が入っている風呂桶の中にドブンと入れます。で、スイッチ・オンflair

 ですから、電気が通っているときに指を入れたりすると、それはもう、すごいビリビリが、指先を走ります。thunder

 だれかが風呂に入っているときに、気付かないでスイッチを入れた日にゃ〜〜、もうすごいことthunderthunderになるわけです。
 でも、死人はでなかった。・・・・そんな話じゃないか。wink

 小学校時代はずーっと電気風呂spaでした。

 そういえば、オヤジが、そーいうのを作るのが好きで、電気釜flairも作っていました。

 いわゆる電気釜が世に出るもっと前に、電気釜でごはんを炊いていました。

 電気釜は東芝が昭和30年に発売したのが初めてだそうですが、

http://www.toshiba.co.jp/about/histo_j.htm

 我が家では、昭和26年には、オヤジ作成の電気釜でご飯を炊いていました。一升釜でしたから、大きめですね。

 おこげもできて、うまかったなあ。

 

家なき子

 イヤー、どういうわけか、突然家なき子を思い出しまして、

 講談社の絵本の「家なき子」(エクトール・アンリ・マロ作)。
 ワタクシの世代の人は、これなんでしょうか。

 子どもの子ども時代(って変な言い方ですが、1970年代後半)にはアニメで見ましたね。

 最近(といってももう古いですが)では、安達祐実のTVドラマですか。ワタクシはこのドラマをまったくみませんでした。

 講談社の絵本を、検索したのですが、絵本のイメージが違うんです。

 時代によって絵が違うのですかね。

 レミ(家なき子)の持っている楽器が、絵本では竪琴なんですが、ワタクシの頭の中は、ヴァイオリンなんですね。
 川の中の大きな船の上で、ヴァイオリンを弾いている・・・思い違いかな。

宇宙旅行の保険料

 ちょいと宇宙旅行に行ってきます・・・て行きたいもんです。
 そのときの保険ですが、2億円を払ってもらおうと思うと、1000万円〜2000万円の保険料dollarになるそうです。
 掛け金に対して10〜20倍ですね。wink

 むか〜し、山岳部だった大学時代、ヒマラヤ行きfujiを計画したことがありました。そのときの保険料が、10万円。大卒初任給が2万円くらいのころです。で、万が一の時の金額が70万円。かつ、1人あたりの上限が70万円。

 金額からすると、40年前ににヒマラヤ山脈に登るより、今の宇宙旅行の方が、危険率は少ないってことですね。・・・確かに、よく死んでいましたから・・・。今の人は、いくらくらい掛けているのだろう・・・。

 もらう70万円も、助けに行く人の費用で無くなりますし、捜索をするとそれだけでは、足らないので、家族は何百万も持ち出しになる・・・ということで、断念しました。

 結局、ヒマラヤには行かないで、ボルネオのキナバル山に登りました。・・・その後、数年して同期と後輩がヒマラヤに行きました。

 写真は、マチャプチャリ です。ネパールでの日本の富士山みたいな存在です。


宇都宮線 ぐるり関東半分の旅Ⅵ

 栃木県の小山から宇都宮線に乗って上野へ。宇都宮線は、黒磯ー上野なんですね。

 みなさん、JR上野駅の隣の駅の名前、言えますか。
 山手線や京浜東北ならば、鶯谷・御徒町。ちょいとひねって新幹線の大宮・東京って答えもあります。しか〜し、

 ワタクシ、尾久(おく)という駅があるのを知りませんでした。

 もう少しで上野だ・・って思っていたら、ずいぶん広い電車区に着きました。尾久なんですね。住所で言えば北区になるんでしょうか。

 尾久という駅があるのがわかっただけで、宇都宮線に乗ったかいがあったというもんです。

 東京なのに、ちょっとうら寂しい雰囲気のある駅です。今度、下りてみよう。

 

 

両毛線 ぐるり関東半分の旅Ⅴ

 両毛線・・・って書いたのは、もう五回。
 ぼやぼやして時間がかかると、どういう訳かパソコンが動かなくなり、ブログにアップできない状態になってしまいます。

 ・・・で、急ぎます。

 両毛線って、博打好きにはたまらん線だろうなあ・・・と思いました。

 両毛線は、新前橋ー小山ですが、電車は全部上越線の高崎からでています。
 その高崎には、地方競馬の馬券売り場horseがありますな。ちょっと前までは高崎競馬という地方競馬があったのですが、赤字で無くなりました。

 途中の駅に伊勢崎があり、オートレースがあります。
 っていってもピンと来ない人には、モーターバイク、つまり自動二輪車のレースです。伊勢崎オートでありますな。

 さらに、岩宿駅下車徒歩15分には桐生競艇場があり、ボートレースがあります。ship

 それに高崎の隣の前橋と電車が行く宇都宮には競輪bicycleがありますので、あらゆる賭け事が用意されていますから、たまらん(貯まらん)路線でしょうねえ。dollar

 そうなんです。途中に国定なんて駅もありますね。ばくち打ちの大先輩の国定忠治さんのお生まれになったところなんですね。

 ほんで、昔からそういう土地柄なんだということで、納得しましょう。pig
 

八高線 ぐるり関東半分の旅Ⅳ

 相模線の終着は横浜線橋本です。ここで、乗り慣れた横浜線に乗り換えました。午前11時32分発八王子行き(クハ205)。
 八王子でいよいよ八高線です。しかし、直行ではなく高麗川で乗り換えるようです。train
 八王子発12時2分川越行き(クハ208)
 高麗川発13時2分高崎行き(キハ111)

 高麗川からの高崎行きの電車でやっとローカル線らしい電車に乗ることができました。
 車窓からみえる景色もそれなりにローカル色たっぷりで、シンプルな改札口に置いてある、スイカをタッチするところが、なんとなく浮いてみえます。

 ・・・しかし、風景をみていてなんか違和感を感じるのです。
 ・・・う〜ん、なにがヘンなんだろう・・・。

 そうか、この違和感の原因は、車窓からみえる家々が原因でした。
 それぞれの家は、それなりの形や大きさなのですが、壁と屋根の材料が各戸バラバラです。sad
 後で、都会の景色を見て思ったのですが、ビルが林立する中での家の壁や屋根の材料のバラバラ感はそれほど気にならないのです。

 田舎ではに存在感があります。

 そのために、一戸一戸の個性が、都会の同じ規模の家に比べて存在感が大きく、はっきりして、壁や屋根の材料がバラバラの場合には、それが見る者に、違和感を与えてしまう・・・ということなのではないかと推察します。

 とはいっても、なんでもありの今の世の中、これをなんとかしろっていうのは、難しいでしょうねえ。

 しかし、白壁と黒い屋根瓦の家が5戸でも並んでいれば、それなりに美しく見えます。それが10戸〜20戸の集落であれば、それを見たいとか写真にとりたい・・・という景色になるでしょう。

 街や集落を外からみたときに美しいということは重要だと思うのですが、今や、絵空事なんでしょうねえ。

相模線 ぐるり関東半分の旅Ⅲ

 大船から東海道線小田原行き(モハ221)trainに乗って、茅ヶ崎へ。

 ま、このあたりは、見慣れた景色です。

 茅ヶ崎でいよいよ相模線に乗ります。橋本行き(クハ204)。
 この電車で驚いたのは、ドアを開けるための手押しボタンがドアの横にあったことです。これで、一挙にローカル線モードに突入しました。

 また、相模川沿いを走るので、景色がまったくのローカル線です。

 あ、その前に、喉が渇いてきましたので、茅ヶ崎駅でビールを買いました
 茅ヶ崎発10時17分。
 電車が動き出してから飲みましたが、まだ、朝だチュウに、ビールを飲めるなんて、サイコーbeer、サイコーbeer

 でも、途中から、景色の中に、工事中の橋桁があらわれてきます。

 さがみ縦貫道ということです。
 東名高速carの厚木付近にある橋桁の道と繋がるんだな。
 今まで、無かったのが不思議なくらいの道路rvcarですね。
 第二東名はどうかと思いますが、関東平野を大きく回る道路busは必要です。
 16号はめったに通りませんが、混んでいるようですもんね。

 完成の暁には、景色が変わりますね。・・・ということは、早い内に相模線に乗っておいた方がいいってことですね。
 相模川は、河原で遊んでいる人が多いのですが、道路が完成しても、今みたいに遊べるのかな?なんか暗くなりそう。

 厚木を過ぎる頃から、電車が混んできて、普通の車内の雰囲気になってしまいました。

大船駅にて ぐるり関東半分の旅Ⅱ

 本郷台のプラットフォームからの光景に唖然としながら、大船で東海道線に乗り換えます。

  大船駅では、観音様が見えますね。
 最初に観音様を見たのが、昭和30年の夏なんですが、そのときから、「あの観音様は立っているのか座っているのか」というのが疑問でした。

 座っている観音像を見たことがありませんし、木陰からの顔の出方からして、立像のようにも思えません。
 立っていれば、足元は深く掘ってあるか、深い谷底か・・・・。

 そんなに疑問ならば、確認のために行ってみればよいのですが・・。

 今までにもチャンスは何回もあったのです。
 大船のマンション群に講演するために、大船駅で下車したこともあるし、なんと言っても、横浜からそれほど遠いところではありません。東海道で十数分です。
 にもかかわらず、観音様を見に行ったことがないのです。
 五十年強、半世紀に亘る疑問を解決せずにコンニチまで来てしまった・・・ソンナニ大げさなモンジャナイ・・・

 う〜ん、・・・コンクリート製というのが、足が向かない原因なのかなあ。・・・コンクリート製ですよね。

アー、日本 ぐるり関東半分の旅

 休日だった昨日は、ぐるり関東・半分だけの汽車の旅trainに出ました。

 朝8時50分に自宅を出まして、帰宅したのが20時20分。
 約12時間の小さな旅というか、汽車に乗ってただけというか・・・。
 関東平野を取り巻く山裾の状態を見る・・・ということです。

 わずかそれだけなのに、考えること多々あり・・・でした。

 まず、

 JR横浜駅から、茅ヶ崎に行って、相模線に乗るつもりでした。
 駅に行って、根岸線洋光台 → 大船 を未経験だったことに、ふと気がつきました。
 そこで、東海道線で直接茅ヶ崎に行くのではなく、外側を通る根岸線の方に乗ったのです。

 根岸線と言っても、京浜東北線の延長上です。
 横浜発9時6分発磯子行き 
 その電車(クハ208)は磯子止まりでしたので、磯子でちょっと待って大船行きに・・・この電車もクハ208。

 この線で、まず、驚きました。
 本郷台のホームから見えた景色です。

 異様な景色でした。
・・日本の都市政策・住宅政策・それに伴う法律などを如実に見せてくれていました。angrysad

 説明は良いから、早く、写真を見せろって・・・ごもっともなご意見です。
 ワタクシ、カメラを持っていったのですが、スイッチオンしても、充電切れのためか、ウンともスンとも反応しません。shockdespair

 山というか丘というか・・・小さな山だった土地が、無様に切り取られているのです。山が半分になっている・・・という姿は時折見かけますが・・・。

 丸いケーキを、ちょっとずつ切って食べて、4分の1くらい残っている姿・・・に似ています。それが左右で切り通しになっている・・・、そういう姿です。想像できますか。

 もちろん、切り取った斜面はコンクリートになっています。

 ちょっと前に、中国で、緑を増やすために絵の具を塗った役人のことが報道されていましたが、それをけっして笑えないと思いました。

 私権と私権がぶつかって、回り(環境)を考慮しなかったら、コーなりますっていう姿です。

 いずれ近いうちに写真を撮ってきますが・・・、本郷台駅からの光景をご覧になった方、いらっしゃいますか。

明日の予定は未定なり

 世の中、ゴールデン・ウイークで休みの人たちで溢れかえっているようですが、ワタクシのところは、シゴト・・シゴト・・で、追われています。

 この季節が、いろんな病気予防の開始の時期なもんですから、ハイ。
 ま、動物病院のかき入れ時?ですかね。
 ・・・・犬dogを飼っているみなさんは、病院へ行って下さいね。

 とはいっても、週一くらいは休みたいもんです。
 かといって、人の大勢いるところは、行きたくありませんし・・・。

 明日、ドーしようかなあ。happy01

 アイデアが浮かんでこないときは、今までに乗っていないローカル線にひたすら乗るってきめているのです。
 とはいっても、テッチャンbullettrainじゃありません。

 酒bottleやビールbeerを飲みながら、ローカル線trainに乗ってくる人を観察する・・。
 まあ、田舎の人をマンウオッチングする小旅行ですかね。
 明日は、どこのローカル線がよいでしょうかね。

 東海道で平塚まで行って、相模線 → 八高線 → 両毛線 → 水戸線・・てなところでしょうか。

 暗くなれば、帰途につきますから、どうなりますか。
 てなこといってて、映画をみるだけだったりして・・・。 

ウズウズします

 朝の犬dogのシッポのニュース・・・。
 ワタクシ、コーいうの大好きです。smile

 できれば、ワタクシも、コーいうニュースを流したいと思っているのですが、立場上、なかなかデキマセン。

 昔、私のバトラーを見て、「熊みたい」と言う人がいたので、
 「そうです。熊と犬の混血です。」と言ったら、信じてしまった人がいて、困ったことがありました。shock
 「この犬は北海道生まれなんですが、お母さん犬が熊と不倫したんです。」って、わかりやすいウソを言ったつもりが、ソーではなかったヨーで・・・。shock

 熊犬のバトラーですが、
 Tシャツを着せていたので、熊犬に見えた・・・かな・・。

 


 
 

アイガモロボより、コイだよ

 今日の日経新聞朝刊の15面に「水田の除草 ロボ、アイガモ代わり」という囲みの記事がありました。
 前から、似たような研究がされています。今回、紹介されたのは千葉大学の人のものですが、岐阜県の農業関係の研究所でもやっているってずーっと前に紹介されたことがあります。

 こういう記事を見るたびに思い出すのですが・・・
 
 母の実家は岡山の旭川河口の近く、百間川のそばの農家でしたが、そこでは、鯉fishを水田に泳がせて除草をしてもらっていました。
 確かに、現在の技術を生かす・・・ということは大事なことでしょうが、昔の智恵も生かすことも大事でしょう。

 鯉fishは食べられますrestaurantよ。油を使うこともないし。
 除草には合鴨もいいですが、鯉でもよいのではないでしょうか。

 ついでに思い出話

 母の実家の場所は、江戸時代初期の干拓地ですが、汽水域の大きな川(たぶん、遊水池代わり)と大きな水田に囲まれたところでした。

 小学校を卒業するまでは、夏休みのほとんどをそこで過ごしました。

 「今日の夕飯のおかずは鯉fishにしよう」となると、祖父が家の裏側の水田の中に小舟を出して、鯉を捕ってきました。
 ワタクシの記憶の中には、投網姿の祖父がいるのですが、水田に網を投げることができたかどうか・・・怪しいですね。

 表(南側)には汽水域の大きな川が拡がっていたのですが、そこでは蝦(エビ)や鰡(ボラ)が捕れました。鯰(ナマズ)も鯉も鰻(ウナギ)も取れていたのでは・・・と思います。
 ワタクシは、鰻はもちろん、ナマズや鯉が好きでしたが、ボラはあまり美味しいとは思わなかったですね。その後、食べてないのでなんとも言えません。

 お米は当然自作でしたから、半農半漁の究極のエコライフですね。
野菜も自作、鶏もいる・・ですから、食生活はけっこう裕福ですよね。

 そういう暮らしのせいでしょう、祖父は90歳で死ぬまで普通に動いていました。祖母は、ふつうに風呂(五右衛門風呂)に入っていて、亡くなりました。70歳でしたが、今から50年も前ですから。

 みんな、寝込むということなしにあの世に逝ってますので、言うこと無しですよね。

 雨の日は、祖父は、網の手入れをしていましたね。
 半農半漁・晴耕雨読・・・やはり、こういう暮らしが人には一番良いのでしょうねえ。

 江戸の初期から300年も、ほとんど同じ暮らしが続いていたのですから、大したもんです。

 7年前に、その場所を訪ねたことがあります。

 水田はすっかり埋め立てられて工場や大きな建物が建っていましたが、南側は、昔のままの景色でした。人手に渡った思い出の家が、埋め立てられた端っこに建っているのでした。

 そこは、180度昔・180度現在の境という・・・不思議な場所でした。

 自分の生きている現代社会と、遠い昔の子どものころの思い出の、狭間です。立っている自分の体の向きを変えるだけで、瞬間的に過去と現在を行ったり来たりして、それにつれて心も揺れる、不思議な時間も経験しました。

 そう言う場所に立ったこと、おありですか。


ノンちゃん

 今朝、朝日新聞を何気なく見ていたら、石井桃子さんという名前が飛び込んできました。
 石井桃子さん・・・あの名作「ノンちゃん雲に乗る」の作者です。百歳になられたんですね。写真ではお元気そうです。

 「ノンちゃん雲に乗る」・・・お読みになったこと、あるでしょう。
 大好きでした。
 最初に読んだのは小学3年だったかな。ノンちゃんに「女の子」heart02を感じましたね。
 ワタクシの兄弟は、歳の離れた姉がひとり、後は男3人兄弟では、女の子の香りっちゅうもんが、暮らしの中にありませんでしたから。

 東京の郊外で暮らす女の子・・・というだけで、なんとなくウキウキしました。近所の遊びに来る女の子をジャケンにしたのも、そのせいかな。
 映画は、鰐淵晴子さんだったと思います。

 子ども時代に読んで印象に強烈に残っているのは、あとは、青木茂・筒井敬介の「三太物語」fujiと作者がわからない「まきば物語」clover

 まきば物語は、ネットで見ても載っていません。どなたか、ご存じ方、いますか。話の筋は、アルプスの少女ハイジ に似ています。

 この三冊と「日本の昔話」「世界の昔話・童話」は、ほんとに繰り返し読みました。

 写真の子たちは、ネパールの子。
 大人になって本が読めるようになるのは、この子たちのうち何人だろう。
 

飼い主に似すぎる犬

 いるんですよ。飼い主にそっくりな犬dogが。
 ワタクシのバトラーもそうでした。

 亡くなって、もう18年は経とうとしている、何度かお目に掛けました写真の犬の名前です。
 かつて、ワタクシが飼っていた犬です。
 犬種は、フランダースの犬・・のブービエ・デ・フランドル(フランダース)。

 


 名付けたわけは、ワタクシに忠実にあれ・・・ということで、
 執事= Butler =バトラー にしたのです。風と共に去りぬのレット・バトラーにも引っかけて・・・happy01

 名前に負けず、十分にワタクシに忠実でした。

 ワタクシが酔っぱらってbeerbarbottleバトラーの胸を枕にして寝込んでも、酒臭い息に文句一ついわず、朝まで寝かせてくれました。sleepy
 ワタクシの意のあるところを察知して、そこで待機するなんてことは当たり前。

 忠実すぎて、ほとんどそっくりともいわれてました。
 足音footがそっくりだったそうで、ちょっと片足を引き摺るような感じで。
 確かに、ワタクシは中学時代に、石原裕次郎さんの真似をしすぎて、歩き方もちょっと引き摺り加減でしたが。

 もっと驚くべきことは・・・ちょっと恥ずかしくて・・・ですが・・・。

 例えば、病院の待合室に、美女が入ってこられますheart02
 寝ていたバトラーは、ムクッと起きあがり、鼻をガホガホ鳴らしながら、受付の戸を押し開けdash、美女に近づきますheart04
 大体において「アラー、カワイイ」なんて言われますから、本人dogはマスマス張り切ります。

 ところが・・・ソレナリのお歳の令夫人・・マア、早い話がオバサマだと、ピクッとも動きませんsleepy
 タマタマ、美女に愛想をふった後などで待合室にいたりなんかしたときに、オバサマに「カワイイ」なんていわれても、オアイソ程度に「ハイハイハイ」てな感じで、Uターンしてしまいます。

 こりゃ、マズイわけですdespair

 「オヤノココロ、コシラズ」・・・と思っても、日頃「院長にソックリ」なんて飼い主さんからも言われている身としては、非常にマズイdespair
 似てれば似ているほどマズイshockdespair

 と言っても、対策は無いわけで、後ずさりしながら、フェイドアウトするしか方法が無いわけで・・・pig

 てな具合に、まあ、ワタクシとの結びつきが斯様に深うございましたので、エイヤっと、バトラー先生と名乗っている次第です。

 そんなに似ているかなあ〜。



 

ぜにのないやつぁ・・・

 俺んとこへ来いnote
 俺もないけど 心配すんなnote

 って唄ってくれていた植木等さんが亡くなられました。

 大げさにいうと、植木等さんは高校時代のワタクシを救ってくれた人です。

 高校時代、通っていた高校schoolが肌に合いませんでした。

 朝、通学列車trainに乗ったときはなんともないのに、高校のある駅が近づくとお腹が痛くなり、午前中それが続き、昼になると治ってしまう・・・ということが長く続きました。

 ・・・後で考えると、体が登校拒否を起こしていたんですね。
 その時代、登校拒否という言葉がなかったと思います。あったとしても、そのころのワタクシの頭の中には、そう言う言葉が浮かびませんでした。

 体の変調は、喉に来ることもありました。喉が痛くなって声が出しにくくなって・・という具合です。・・・病院にも行きましたが、ま、大したことはないという診断でしたし・・・。

 学校の成績は真っ逆さまに落ちていきましたが、楽しそうにクラブ活動をやっていましたので、同級生や周囲のみんなは、楽しい高校生活を送っているのだろうと思っていました。心の中は、まったく逃避状態でしたが。

 そういうジレンマを救ってくれたのが、植木等さんの歌であり映画でした。

 歌はほとんどソラで歌えます。
 ほとんどの映画はみました。特に、中間や期末の試験が終わったときは必須でした。
 無責任男の役名の平 等(タイラ ヒトシ)の向こうを張って、ペンネームを平 均(タイラ ヒトシ)にしていたこともあります。

 ワタクシが一番好きな歌は、青島幸男さんの作詞ですが、
「だまって俺についてこい」です。
 これが男の生きる道 や めんどうみたよ もいいですね、哀愁があって。

 「だまって俺についてこい」は、確かTV番組の「スチャラカ社員」のテーマミュージックだったと思います。・・といっても、話が通じる人はほとんどいないか・・・。

 だまって俺についてこい

noteぜにのないやつぁ
 俺んとこへ来い
 俺もないけど 心配すんな
 みろよ 青い空 白い雲
 そのうちなんとかなるだろうnote

 わかっとるね わかっとる わかっとる
 わかったら だまって俺について来い


 合掌

ミーハーだから・・30歳検定の結果

 30歳の倍以上の年齢のワタクシが、参加するのは、ひとえに、ワタクシがミーハーだからであります。

 で、結果は ・・・ンナ、バカナです。shock

 おめでとうございます! あなたは今が食べごろのステーキ。
美味しくて一度味わったら病み付きになるため、みんなは夢中。
そんなあなたの30歳力は100%です!


モテリーマン
仕事も恋愛も充実
後輩に絡み酒を始める

心身ともに脂の乗ったあなたは、仕事にもやりがいを感じる時期にさしかかっています。プライベートでは女性たちは素敵なあなたに夢中! このままモテリーマン街道を突っ走ってくださいね。でも油断は禁物、40代の入り口はすぐそこです。毎日の体臭チェック、ファッションチェックは欠かさずに! ナイキのエアマックスをパクられたことは、もうそろそろ忘れてください。青春時代を語りだすのは早すぎます。


 と、言われてもあまりにも離れすぎています。・・・いつまでも成長しないって・・・ことか。despair

 ナンデダロー・ナンデダロー・・・より ナ〜ンデカ の 方が当然バックに流れるのです。

 アニメの選択では「鉄腕アトム」になりますが、ほんとのところは、子どもと見ていた「いなかっぺ大将・」「タイムボカン」。ワタクシの子ども時代の漫画で好きだったのは「白星くん」・「イガグリくん」・「赤銅鈴の助」。

 アイドル「キャンディーズ」にしましたが、う〜んと子どもの頃は、古賀さと子さん。その後、吉永小百合さん。

 ・・・ヤッパ、参加ニムリガアッタカ。

 ということで、このブログを見ている人で白星くん・イガグリくん・古賀さと子さんが分かる人、手を挙げて下さ〜〜い。


寝殿造りの住み心地

 イヤ、ワテの住まいやおへん。
 光源氏はんのお住まいドス。
 六条院いうて、それはそれは、大きな邸宅ドス。

 たしか、周囲が1kmはありまっせ。一辺がたしか254mやったかいな。それを四等分して、四季で住み分けはったいうさかい、エライもんでっしゃろ。

 寝殿造りの部屋を仕切ってますのんは、おもに、カーテンみたいな御簾だけでっしゃろ。冬はけっこう寒そうでんな。そいでも、家を建てるときは、夏向きに〜いうて、兼好はんもいうてはるし、なあ。

 光源氏はんの時代(西暦1000年ごろ)の気候はどないやったんやろ。
 平清盛はん(西暦1181年没)は、マラリアで死にはったですよって、京都も結構、熱かったんと思いまっけど。それより、光源氏はんは170年くらい前でっしゃろ。

 ま、下々のワテらは、寝殿造りに住めるわけおまへんから、どうでもエエことですけど〜。

 ワテの場合は、六条院やのーて、六畳イン。 

ペンチで開けてね

 ひろぽんさんが「欧米か」で、日本の車も汚くなった・・・とエントリされてます。

 ワタクシが見たスゴイ自動車car

 ラスベガスで走っていた、ボンネットとトランクの蓋がないオープンカー
 早い話が・・・屋根系というものが、まったくないのです。
 ラスベガスは雨rainが降らないので、それでも問題ないのでしょうが・・・。

 次に、
 カリフォルニアの大学のK先生のMGーBrvcar

 アメリカ人で英国車のMGって珍しい、きっとクラシックカー大好き人間・・・と思うでしょ。
 トコロガドッコイ、単なる中古のポンコツ車。

 助手席にのせてもらおうとしら、シートにペンチが置いてあるんです。
 何に使うのかなあと思って回りをみたら、ドアノブがない。
 そのペンチ、ドアの取っ手でした。
 ペンチで、元ドアノブがあったところの出ているところを掴み、回す・・という具合です。

 スキダナア、こーいう世界。

 

子どもと、何して遊ぶ?・・親父の思い出

 早く帰って子どもと遊ぼう・・・って書いていたら、
 自分の子ども時代のことを思い出しました。shine

 ワタクシの親父・・・明治生まれですが、よく遊んでくれました。happy01
 鍛冶屋の親方・零細企業のオヤジ・かっこつけて言えば刃物製造会社社長でしたが、小学校の低学年くらいまでは、よく相撲をしてくれました。畳の上で、親父があぐらをかいて、こちらがぶつかっていく・・・。

 おとぎ話というか民話もよくしてくれましたね。タヌキやキツネにだまされた話が得意でした。どこそこのオジサンが・・・という具合に、ありそうでなさそうな・・なさそうでなさそうな話を。

 散歩もよくしました。
 その辺をちょっと歩くというのではなく、何時間も歩くのです。
 気の向くまま歩くのですが、時には歴史的な場所に行って由来などを話してくれますので、おかげで町の近辺にある名所旧跡には詳しくなりましたし、歴史を自然に憶えましたね。

 よく考えれば、ワタクシが娘にしたことは、ほとんど親父譲りです。
 そうやって、父から子、子から孫へと、何かが伝わっていくのでしょう。
 
 山上憶良の

 憶良らは今は罷らむ子泣くらむそれその母も我を待つらむぞ
(おくららは いまはまからむ こなくらむ それそのははも わをまつらむぞ)

 銀も金も玉も何せむにまされる宝子にしかめやも
(しろがねも こがねもたまも なにせむに まされるたから こにしかめやも)

 などの和歌を教えてくれたのも親父です。

早く帰って子どもと遊ぼう

 問題は、早く帰って何をするか・・・です・・ね・。

 子どもが小さいとき・・・ま、小学生の間は、「子どもと遊ぶために早く帰る」ことにする。・・・した方がよい・・と思います。
 
 そのために、

 日本の時刻をもっと早めたらどうですかね。
 夕暮れが午後9時くらいになるように、時間を早めてしまうのです。

 仕事が終わって一杯bottle・・・の代わりに、外は明るいですから、帰ってから9時くらいまで子どもと遊ぶんです。まだ明るいので、サッカーsoccerだって野球だって一緒にできます。他のスポーツtennisgolfsnowboardrunだって、いっぱいできます。
 それから夕食を一緒に食べて、風呂spaに一緒に入って寝ます。

 時間がずれますので、朝は暗いうちから起きることになりますが、朝日を浴びるって気持ちいいですよ。

 いかがでしょうか。
 省エネにはなるし、親子の断絶は無くなるし、犯罪だって・・・たぶん、減るでしょう。

 エッツ・・・夜のおもしろいことが無くなる・・?
 イエイエ、おもしろいことは、どんな状況になっても無くなりませんよ。むしろ、禁断の木の実appleを食べるおいしさは倍増・・・てなことはないか。

 追記
 日の出日の入りを考えて時刻を決めますから、江戸時代と同じような時刻になります。しかし、ちょっと不便かも知れませんので、スプリングタイム・サマータイム・オータムタイム・ウインタータイムと4種類の時刻の方がよいかもしれません。
 ・・・時間にとらわれない人生を送ることができますhappy01
 
 追記その2
 子どもがいない人は・・・って怒られてもいけないので、念のために言っておきますが、犬や猫と遊びましょう。ペットも遊びたいのです。
 ペットがいない人は、遊ぶ相手がいない人同士遊びましょう。
 ・・その相手もいない人・・・は、・・・独りで滝に打たれましょう。

生き方さまざま

 ヒンドゥー教の教義では、人の理想的な一生を、四つの段階(四住期)に分けているそうです。
 学生期(ガクショウキ):訓練と教育の期間
 家住期(カジュウキ):社会で積極的に活動する期間
 林住期(リンジュウキ):俗世との縁を絶って森に退く期間
 遊行期(ユギョウキ):隠者となる期間

 ワタクシのインドのイメージで、
森の中でヨーガをやっている姿と、筋に関係なくいきなり踊り出すインド映画の現実肯定とが、あまり合致しなかったのですが、
 家住期もその後の林住期、遊行期も同じレベルで大事と聞けば、納得するのでした。

 インドでは、死を悟った人がベナレスに向かって旅をするそうです。途中で行き倒れても、だれかがその見ず知らずの人を保護して、面倒をみるそうです。みんながみんな、そうしないまでも、そういうことがあるんだ・・・というだけで、なんとなくホッとします。

 インドと同じヒンドゥー教のネパールでも、ヒンドゥー寺院の中にある死を待つ人の家では、死ぬまで面倒をみてくれるそうです。
 写真は、その寺院にいるインドアカゲザルです。とてもおとなしく、ニホンザルとは大違いで、手を出してきたりはしません。もっとも、人も何かを与えるということはしませんが。



 ワタクシは、この歳になってもまだ、家住期におり、早く林住期から遊行期へ移りたいと思っていますが、なかなかできかねます 。

ノブレス・オブリージュ

 フランス語で「高貴なる者の義務」だそうですが、社会的に高い地位にある者は一般の人よりも大きな義務が課せられている・・・という考えだそうです。
 イギリスでは、第一次大戦第二次大戦の戦場における戦死率は、貴族出身の将校の方が庶民の兵士より高かったということですから、古代ローマからの伝統なんでしょうね。

 日本だって、かつては上級武士が先頭に立って戦うこともありましたが、現代までその風潮が残っているかというと・・・そんなことは、さらさらないですね。・・・いつから、無くなったのでしょうか。

 政治家が「秘書が・・・」というのは、もう決まり文句ですが、不二家でも最初に「パートが・・・」というが出てきましたね。
 創業者がしっかりしていても、四代も経ると教育が行き届かなくなるんですね。
 責任をしっかりとってくれる人をエリートして尊敬できる社会であればよいのですが、「もの覚えだけがよくて、小ずるくて、小賢しい人」がエリートと呼ばれるのでは・・・先は知れています。
 

我が暖房史 Ⅳ

 播州の寒い実家を後にして、大学に入るために北海道の帯広に行きました。
 
 そのころ(昭和40年)の帯広は、暖房の熱源としては、石炭と薪と石油が混在していました。
 下宿からスタートしましたので、石油ストーブでした。それも反射型のちいさいもの。
 あまり効力がありませんでした。その上、北海道と兵庫県南部では、基本的な寒さがまったく違いますから、自分の部屋にいるより、誰かのところにいる・・・ということが多くなりました。しかし、そのストーブを4年間、使いました。

 北海道生まれの人にとっては、薪ストーブルンペンストーブは常識でしょうが、ワタクシ、19歳にしてはじめて見たわけです。
 なかなか、情緒があっていいもんでした。

 煙突がある家・・・というのも、私のふる里にはありませんでした。煙突が各家から出ているのも珍しかったですし、道を歩くと、軒下に薪が積んである家、石炭小屋がある家など、各家の使っているものが分かるというのもおもしろかったです。

 薪ストーブにしてもルンペンストーブにしても、ほんとに暖かで「イインデナイカイ」 という北海道弁がぴったりする生活用具です。

 根室本線の除雪車です。もう、活躍していることでしょう。
 

我が暖房史 Ⅲ

 まさかと思いながら、辞書を引きましたら・・・・
載っていましたね、 股火鉢

 「はしたない格好をするな」と、親にangry叱られましたが、ツルツルすべる火鉢の上に乗るのは、曲芸の第一歩みたいで、おもしろかったです。
 ・・・兄貴がすべって片足を火鉢に入れ灰だらけ・・・になったような記憶もあります。

 昭和30年代後半になると、電気ヒーターが居間にありました。

 実家は天井が高く、欄間があったりしましたので、今考えれば、寒い家でした。
 でも、それほど苦にならなかった。ポカポカ暖かい猫catもいたし・・・抱けばすぐに暖かくなれます。

 今でも、寒さも暑さもあまり気にならないのは、育ちのせいなんでしょうか。

 「滅却心頭火自涼(心頭滅却すれば、火も自ずから涼し)」なんて、甲斐塩山は恵林寺の快川和尚みたいなことを宣えるのは、そういう時代をすごしたからでしょうか。でも、寒がりもいるなあ。

 ネパールの猫:日なたぼっこは、猫とするのが一番絵になります。

 

外国人の眼を借りる

 「硫黄島からの手紙」を観た後、なんとなく腑に落ちなくて・・・その帰りに本を買いました。

 「英国人写真家の見た明治日本」 ハーバート・G・ポンティング 長岡祥三訳 講談社学術文庫

 外国人からの眼で日本を見たときに、どういう光景になるのか・・・・
 クリント・イーストウッドの眼で戦争中の日本を見たときの、視線がほんのちょっぴり分かるかも・・・という思いで買いました。

 クリント・イーストウッドと同じくハーバート・G・ポンティングも、日本人を非常にやさしい眼で見てくれていますね。それはそれでうれしいことです。
 彼らの視線は、もちろん、見下したやさしさではありません。尊敬の眼も持っています。
 そう言う眼って持ちたいと心がけていますが、さて。

 私はポンティングの来た時代も硫黄島の時も、まだ生を受けてはいませんが、影響は受けています。
 この本、目から鱗のことも書いてあります。もちろん、ぜんぜん変わってないやーということも。おもしろいです。

 ちょっと・・・じゃなく・・・大いに、頭の中がバラツイテいます。

 写真は、ムコサンが昨年のハローウイーンのときに送ってきた、彼の友人の犬たちです。


 

 
 

我が暖房史 Ⅱ

 ミニーちゃんのママのリクエストに応えて・・・・というより予定通り、湯たんぽについて。

 その前に、臭気判定師匠にお礼を申し上げます。
 「豆単」って懐かしい・・・。の中で、教えて下さいました。
 炭をおこす・・という字を「起こす」と書きながら、なんか変だな・・・と思っていました。
熾すでしたね。ありがとうございました。・・・快便の後のように、すっきりしました。

 で、湯たんぽですが、

 冬の朝は、湯たんぽの中にある、ちょっと冷めたお湯で顔を洗う・・・ということから始まりました。
 湯たんぽは、例の円形(まん丸ではないですが)で表面が波打ったアルミの湯たんぽです。それに、沸騰させたお湯を薬罐からそろそろと入れ、蓋を閉め、ふとんの足の方に入れる・・・という順序でしたね。
 どこかの家で、湯たんぽに水を入れたのを、直接、ガスで温めていたのをみて、びっくりした覚えがあります。・・・他にも手だてがあったら教えて下さい。

 ふとんに入れた湯たんぽが熱いときは、ちょっと体を枕の方にずらします。
 猫catも熱かったのでしょうか。だいたい、頭の方から入ってきました。
・・・いや、出入りがしやすかったのかな。それに私の頭を舐めないといけませんし・・・。

 時代が下がると、アルミじゃないプラスチック製みたいな化学製品の湯たんぽも使いましたね。でも、あまり記憶に残らない。
 

我が暖房史 Ⅰ

 当世の暖房には、みなさんの方が詳しくていらっしゃるので、ワタクシが生まれてからこの方、経験したダンボーについてひとくさり・・・。

 記憶にあるところからはじめますと・・・なんといっても火鉢。
 昭和20年代では、火鉢と炬燵しか記憶にありません。あ、寝るときの湯たんぽと猫cat

 では、まず火鉢から・・・。

 火鉢に入れる炭をかんてき(関西で通じる七輪の方言)で火を起こす手伝いもしましたが、うんと小さいときは、かんてきで起こした炭を火鉢まで運ぶ手伝い・・・運ぶ道具の名前、なんていいましたっけ・・をしました。落とさないようにそろそろと廊下を歩く・・・緊張しましたネ。
 少し大きくなれば、火を起こすという最初の作業からしました。

 火鉢には、木製、陶器製、金属製がありましたネ。
 ・・・・手をあぶって温める・・・・という以外に、湯を沸かして、湿度を保つ・お茶を入れる・・という効能がありましたナ。もちろん、餅を焼く・・・こともしますし、ゴトゴト煮やグツグツ煮と自在に火加減もできましたナ。
 火鉢の炭への灰の被せ具合で火加減をしますので、非常にアナログ的ですが、その作業はやりたいことのひとつでした。お好み焼きに使うときのような鏝を使って台形状にするという作業です。

 今日のドン太の寝姿です。足を出しています。ちょっと暑いのかな?
 

過去の時代に住む

 アフリカは、カラハリ砂漠に住んでいたサン族(通称ブッシュマン)が、強制的に定住させられていたところから、元のすまいの場所であるカラハリ砂漠に、住めることになったそうです。

 「自分の住みたいところに住める」ということは、とても大切なことです。国家権力によって、強制移住させられたネイティブパーソンは、世界各地にいますね。

 われわれだって、偉そうなことは言えません。時代と共に流れていかないといけないのですから。

 人間には、時空というものがついて回ります。場所も大切ですが、時も大切です。

 便利にならなくても昔のままでよい・・・と思っている人はいるでしょう。しかし、そうできないで流されて行く人はいっぱいいます。現代のスピードで生きていけない人はいると思います。

 どうでしょう。
 昭和30年村とか昭和50年村・・・を作って、その時代で暮らしたい人は、できる限りその時代のもので暮らすっていうのは。
 田舎に行けば、ある程度実行可能でしょうが、点で暮らすより、面を作って暮らす方が、よりよいと思うのですが・・・・。

 回想療法という治療法がありますが、そういう暮らしをすることによって、精神的に落ち着ける人って大勢居ると思うのです。

ゲマインシャフトとゲゼルシャフト

 ドイツのテンニースという人が、社会形態について、ゲマインシャフトとゲゼルシャフトということをいいました。ゲマインシャフトは共同態型、ゲゼルシャフトは集合態型。
 ゲマインシャフトは、感情的に融合し、全人格をもって結合する社会で、血縁に基づく家族や地域の村落など。
 一方のゲゼルシャフトは、利益的関心に基づいて、その人格の一部分をもって結合する社会。成員間の関係は、表面的に親密にみえても、本質的には疎遠。大都市・国家・会社など・・・・と説明されています。

 そして、テンニースは、ゲマインシャフトからゲゼルシャフトに社会構造は進む・・・と考えています。

 戦後の日本は、ゲマインシャフトからゲゼルシャフトに突き進んでいます。
 地域社会から会社中心へ。その勢いはとどまるところを知らず、今や、学校の中にまでそうなっています。・・・○○学校に受かるための教育を利益として・・・。

 移行過程では、そのことについて行けない人が大勢できます。
 ならば、その人たちのために、ゲマインシャフト的地域社会を造ることが、その人たちを救う方法であります。
 現在のような、利益追求以外の道はなし・・・という社会では、累々と屍が積み重なるだけとなるでしょう。

 

ハワイのレストラン

 そのうち、ハワイのホノルルに行かれる方に、ちょっと有益な情報を。

 ハワイのタイ料理の店 MekongⅡは、なかなかのもんです。

 ベトナム料理の Hale Vietnamもおいしかったです。
 ベトナム風しゃぶしゃぶ・・・ほんのちょっぴりの麺とタマネギが入っているトマトスープの中に薄切り牛肉をしゃぶしゃぶとして、ライスペーパーに野菜といっしょに包んで食べる・・・ベトナム語ではなんというんでしょうね。しゃぶしゃぶを食べた後は、スープを全部飲んでしまうほど、このスープはおいしかったです。

 あと、「なんかガイドブックに載ったら日本人が増えちゃって・・・・」とオーナーが言っていた韓国料理の So Gong Dong。この店は、ワイキキに近いから行ったことがある人は多いと思います。
 焼き肉もチマチマ焼くんじゃなくて、ここのオバサンに任せて、分厚いのをドサッと焼く・・・というのがいいですねえ。

 今回もどこだったかで行き交ったオバサンが「わたしゃ、十回くらいハワイに来ているけど、どこもおいしくないわよね〜」と言っていましたが、
 
 そりゃ、アンタ、ワイキキから出なけりゃ、おいしいもんrestaurantbarbeerはアリャセンゼ。

 ・・・・・料理の写真がないのは・・・私は、気が弱いからです・・・・

ハワイのお家はいかがですか

 ご案内申し上げます。

 例のカハラ地区の物件でございます。

 土地の広さですが、300坪弱でございます。マ、このあたりでは平均的な広さでございますネ、ハイ。
 家の建坪ですが、135坪ですから、これもこのあたりの普通のクラスですね、2階建てなんですけれど、ハイ。

 ベッドルームは、4部屋ございます。それにオフィスルームが一部屋です。ですから、バスは、当然4つとあとシャワーだけが一つです。4つのバスは、すべてジャグジー付きですが・・・、ハイ。

 マ、みなさま、パーティを頻繁になさるでしょうから、リビングやキッチンを思い切りオープンにしてございます。50名様くらいのパーティでした悠々の余裕でございますし、100名様以上でも、十分に楽しめるほどの広さとレイアウトにはなってございます、ハイ。

 庭にプールはあるのは、マ、当たり前ですから、いまさらご説明しなくともヨーゴザンショウ。

 建築は1990年でございますが、昨年、改装致しましたので、新築同様でございます、ハイ。

 残念ながら、カメラは自粛をお願い致しましたが、パンフレットが手元にありますから、購入予定の方は、連絡をお待ち申し上げておりますhappy01

 あ、忘れておりました、お値段でございますが、3575000ドルでございます。
 昨今、こういう事情でございますので、オーナーさまも少々のお値引きはお考えだと思います。なんでしたら、お伝えいたしましょう、ハイ。
 サンビャクマン・ドルくらいまでは、なんとかなるかもしれません。
 デ、お客様のご予算は???

 

ハワイの賃貸住宅

 娘家族(娘・婿さん・孫)は、ホノルルの賃貸住宅に住んでいます。
 場所は、ダイアモンド・ヘッドの裏手の静かな住宅街。
 
 家賃は、約100平で米月2000ドル。タウンハウスというのでしょうか、2階建ての住宅がくっついた形になっています。
 ハワイの物価は、住宅費を筆頭に、結構高いですよね。
 彼らがハワイに引っ越してくる前にいた、ダラスでは、110平米くらいで1300ドルっていってました。それも、まわりがガードされている賃貸でしたが、今度はフリーです。

 場所の条件も、高級住宅の近くにある安全な地域で、同じようなものですが。
 ハワイはペットOKも割と少ないそうで、探すのにちょっと苦労していましたね。

 1階が、リビングとダイニング・キッチン。あとはトイレ、シャワールーム、階段部分の下に、洗濯機+乾燥機とちょっとしたものおき。2階は、寝室二部屋とトイレ、シャワールーム。



 作りも壁はブロックにペンキを塗っただけで、シンプルです。でも、隣の物音は、玄関ドアを通してしかきませんので、格好をつけて音が聞こえるより、こちらの方がいいなと思います。
 天井も木にペンキを塗っているだけで、いたってシンプルです。

ミシェルの生は、

 孫の誕生日presentのために、1週間、スマッチをお休みしていましたsleepy
 なにしろハワイにいるものですから・・・・airplane

 


 今度の旅行の最大のイベントは、それなんですが、それはそれとして・・・

 スマッチをご覧になるみなさんのためにも、ちょいとばかり調査をしてまいりました。

 オープンハウスhouseの見学です。すごい家も見てきました。

 このご報告は後日するとして、

 トピックスは、生ミシェル・ウィーに会ったを見たことです。

 ゴルフgolfをするために、オアフ島の北側にあるタートル・ベイ・リゾートに、知り合いの人が連れて行ってくれたのですが、そこで、ミシェル・ウィーを見ました。印象は・・・・背の高い足の長い女の子。
 
 ワタクシ、根はミーハーなんですが、日本男児たるもの、あまりバタバタするわけにもいかず・・・、じっとしていましたpig

 ゴルフに興味のない人には、日本人旅行者がいかないお奨めのレストランrestaurantについて、お知らせします。

 ・・・・今日は、溜まった仕事を片づけるために・・この辺で・・・失礼します。
 

隠れ切支丹の里で・・・

平戸といえば、隠れ切支丹でも有名です。

写真は紐差教会です。
明治18年にできたそうで、今の鉄筋コンクリートの建物は、昭和4年の建造だそうです。



この教会に行ったときのことです。
教会で、長崎から来たという、お祖母さま、夫婦、赤ちゃんと思しき4人家族といっしょになりました。なにか祝福の行事でもお願いしようと訪れられたのでしょうか。神父さんを探していらしたのですが、教会の敷地内ほうぼう探しても見つかりません。
そういえば、紐差教会に来る前に、平戸市内の聖フランシスコ・ザビエル教会にも行ったのですが、そこでも神父さんの姿はありませんでした。
紐差教会でもザビエル教会でも神父さんばかりかどなたも見つからないのです。

・・・・さすが、隠れ切支丹の里、神父まで隠れるかと、思ったのでした・・・・。

カブトムシを接写?



 平戸から佐世保に行く道ばたに、カブトムシを見つけ、接写・・・・うそですwink

 途中に昆虫の里たびらという道の駅があり、そこの入り口にあった巨大モニュメント・・・というほどのものではありませんが、なんか妙に感激して、写真をとりました。flair
 こーいうの、なんとなく好きなんです。

 ずいぶん昔、山陽道だったかの道路っぷちに見つけた、ラブホテルをよじ登っている大きなゴリラの写真を取り損ねて、いまだに後悔しています。
 まだ、あるかなあ、明石を過ぎたあたり・・加古川までの途中だったと記憶しているんですが・・・・。


すばらしきかな 生月大橋

 平戸島とその先の生月島にかかる生月大橋は、すばらしい。
 ベイブリッジもレインボーブリッジも、まったく目じゃないです。
 私にとっては、今まで見た鉄骨橋の中で、一番です。

 


 橋の色もよいのです。青空と溶けこむような・・・色です。

 橋の真ん中に立つと、ずーっと向こうの方に吸い込まれそうな、どこかに消えていくような、異界の中に入っていくような、不思議な感覚にとらわれる・・・・そういう橋です。
 ・・・・お稲荷さんの赤い鳥居をずーっとくぐっていく、あの感覚と似ています。

 


 なんといっても、車があまり通らないので、道路の真ん中に長い時間立っていることができるっていうのも、いいです。(平戸島側から、シャッターを押しました)

 


 この写真は、生月島側からみた大橋です。
 橋の無かったころは、この狭い海峡を、荒い波をかいくぐりながら、行き来したのでしょう。生月島にお住まいの方には便利と安全が手に入り、平戸側からの訪問者には、特別な場所への入り口・・・という、昔の苦労を偲ばせるような、すばらしい橋だと思います。

 橋の設計者がどなたかは知りませんが、賛辞をお送り致します。

 

田舎は大丈夫

 もう2週間以上前の話になってしまいましたが、九州1泊2日3県めぐり
 ようやく、時間がとれ、写真をPCに移して、縮小することができました。

 長崎県の平戸までドライブをしたわけです・・・・
 
 びっくり4連発
 その1 平戸のある島の真ん中は、稲刈りの真っ最中。そこで必要なのが、稲木。
 ところによっては、稲掛け・いなばた・いなかけ・はさ ともいうようですが。

 


 それが、道路のガードレールが、稲木がわり にヘンシ〜〜ン。



 ここまでしっかり使っていたり



 橋の欄干まで・・・。



 イヤ〜、ここまでくれば、拍手はもちろん、踊りたくなる。
 
 大丈夫でっせ。しっかりしてはる。

 

技術伝承村特区

 平戸の話になかなか移れないんですが、思いついたときに書いておかないと忘れてしまいますので、悪しからず・・・・

 道具の変化が人の動きを変えます。多くの便利な発明品を思い起こせば、すぐに理解できると思います。

 ただ、そのために消えていくこともあるわけですが、だぶん、非常に大事なものも一緒に消えていくわけです。

 そこで、技術伝承村特区を提案しています。

 ただ、漠然と残すのでなく、例えば昭和30年村では、昭和30年代にあった家でそこで行われていたことをできるかぎり行う。そういうところに住みたい人というのはいるでしょうから、移り住んでもらう。
 ものがあればそれに伴う技術も伝承できます。
 
 大勢の日本人の中には、昔を懐かしがる人はいるでしょうから、何百人かは引っ越してくるでしょう。それはそれなりに自治体として成立するでしょう。アーミッシュをイメージしていただいてよいかもしれません。

 ちょっとだけ体験したいという人には、旅行と同じですから観光業としても成立するでしょう。
 いろんな時代を用意すれば・・・タイムスリップしたように各時代に暮らしたり旅したりできます。

 もちろん、それぞれの時代の家に住むこともできるわけです。今の時代の流れに合わなくても、悩むことはないでしょう。時代の流れが自分に合うところを探せばよいのですから。

 行き詰まっている自治体の方・・・・どこか手を挙げませんか。

どこでも、お好きなように

 広いところ・・・といっても、日本的広いところではなく、中国的(あるいは、モンゴル的)広いところを、車で走っていると、催したときに、ちょっと困ります。女性であれば、なおさらですね。
 
 道がひたすら直線で、



まわりにいるのは・・・・ 水辺に集まっている牛か馬か、



 ラクダぐらいで



 どこでしてもよいのです。

 でも、牛や馬やラクダの視線をあびながら・・・・というのも、また別の勇気がいるかもしれません。

 でも、どこでも自由にできます。




 

トイレのない世界

人の世の常として、生きている限り、人は食べるnoodlericeballbread。 
食べる限りは、出る。

マ、こんなにキバッテ言わなくとも、良いんですけど・・・・。
出るものは出ますから、それに対する対策はどこの民族や文化もするわけです。

厠、雪隠、せんち、便所、ご不浄、はばかり、・・・・てな具合に、日本にはいっぱいそれを表現することばがあるわけです。

ところが、言葉があるかないか知りませんが、トイレが無いところがあります。

・・・・モンゴル・・・・

ワタクシ、中国は内モンゴルのフフホトから離れること600kmの一般のパオに泊まったことがありますが、そこにはトイレはありません。
モヨオした場合は、パオからちょっと離れて、窪みに身を隠し、イタスわけです。



近くに犬がいますが、泊まっている人間に咬みつかないように繋がれています。
普段は、離れています。

犬にワンワン吠えられながら、イタシましたが、モンゴルの犬は、オオカミ対策でもありますから、気合いが入っています。結構、スリルがあります。

この犬たちは、普段は、離れていて、人のものを食べていますので、こちらを見てうまそうrestaurantと思っていたのかも知れません。

こういう犬を見ると、犬がを食べるのは、ふつうのことというのがよくわかります。

究極の水洗トイレ

 においの事件簿の臭気判定師匠が、雪隠についてUPされておられます。
 ワタクシ、開発がされてない国の、そのまた田舎に行ったことが多いもんですから、様々なトイレを経験しております。

 これぞ水洗トイレというのは、
 ボルネオ(マレーシア・サバ州)の水洗トイレでしょう。

 オジサンが川のやや浅瀬にしゃがみ込んでオシリをつけているのですが、それが当地のトイレスタイルです。離れてみていると、大なのか小なのかわかりません。
 小の場合は、男でも、道ばたの茂みとか草むらで、しゃがんで用をたします。ですから、川の中でしゃがんでいるのは、たぶん、大の方だと想像していましたが・・・。(立ち小○なんて行儀の悪いことは、向こうではしないんです。)

 大をすると同時に、川の水がオシリを洗ってくれた上に、大も流してくれるのですから、こんなに便利なものは、ありません。
 ただ、それにトライするには、やや、勇気を必要とします。
 多くの寄生虫の虫卵がオシリから侵入する・・・ということが、WHO(だったかな)なんかから指摘されているからです。

 それに、川の流れに対しどの角度でオシリを向けるのか、工夫しなければなりません。

 ワタクシ、大学山岳部におりました。冬山で吹雪の時にトイレをしなければならないことがありますが、風速と風向とオシリの角度の重要性を、つくづく分かっております。川では流向をあまり考慮する必要はありませんが、流速と角度の計算を間違えると悲惨なことになります。
 マ、川の中では、悲惨なことになったとしても、それも洗い流してはくれますが・・・・。
 

吹雪の国道44号線

 題名が季節はずれですが、ご勘弁下さい。

 私、大学を卒業してからしばらく釧路にいました。
ときどき、仕事で厚岸に行くことがあったのですが、そのときの話です。
厚岸、ご存じですよね。牡蠣で有名です。

 大学を卒業した翌年、昭和45年のことです。
ちょうど、例のムツゴロー氏が、厚岸の隣の浜中のケンボッキ島に住み着いていた頃です。

 釧路から厚岸に行くには国道44号線を通ります。紅葉がきれいでしたから、10月だったと思います。
 釧路の街中を出て、隣の釧路村(現在は釧路町)の別保を通り過ぎたころに、道ばたで人に手を挙げられました。ヒッチハイクです。
 そのころは、ヒッチハイクは日常茶飯事で、私も、大学時代に道内はもちろん四国一周などもヒッチハイクのみで旅行しましたから、そういう人がいて乗せることに、なんの疑問も抵抗も持ちませんでした。
 乗せた人が、若いお母さんと幼い女の子の親子連れというのが、一般的でなかったというくらいです。でも、そんなことを気にすることもなく、その親子を車に乗せました。

 釧路から厚岸まではそんなに遠くありません。1時間くらいでいけます。途中も走りにくいという場所はありません。深山を過ぎ、厚岸までまだ20kmくらい手前のところ、そう軽い上りを登り切って、やや左にカーブしながら下りに差しかかりはじめたところで、母親に降ろしてくれと言われました。昼間ではありましたが、こんな人気のないところで降りるのか・・・と思いながらも、国道をそれたところに知り合いとか親戚の開拓農家でもあるのだろうと思い、親子を車から降ろしました。バックミラーで親子を見ましたが、子どもがこちらを見ながら手をふっているだけの、いうならば普通の景色で別れました。

 次の日です。
 何気なく新聞を見ていましたら、三面の下の方に、44号線で親子が交通事故にあって死亡という記事がでていたのです。事故の発生時間からいうと私の車を降りてから2時間後くらいです。
 「エッ、あの親子だ」と思いましたが、それ以上の詳しいことは新聞には載っていません。
帰りは海岸縁の道を通りましたから、同じ場所を通っていません。
 「あんなところで降りたしなあ・・、ちょっと見通しが悪いところだし・・、まさか自殺ってことはないよね・・」など、考えながらしばらく日を過ごしましたが、いつの間にかそのことを忘れていました。

 次の年の2月の終わりか3月の初めです。
 道東は雪の少ないところですが、太平洋側に低気圧が発生して北上すると、この季節では大雪になります。

 大雪の中、厚岸に行く用ができたのです。あの親子を乗せてから初めての厚岸行きです。
 「あー、あの親子を乗せたのは、このあたりだよな・・」など思いながら、雪が舞う44号線を厚岸に行きました。無事仕事を終えたときは、暗くなっていました。
 帰るために44号線を釧路に向かいました。風が出てきて結構吹雪いてきました。海岸線から2〜3kmは内陸に入っていますが、風の影響を受けているのでしょう。
 雪がふっている中を車で走るとき、ワイパーに雪が積もり見えにくくなります。雪の量が多いと、どんどん視界が狭くなっていきます。
 ちょっと危険ですが交通量の少ないところでは、ライトを上に上げ、センターラインを跨ぎ気味に走るのが走りやすいのです。スピードを出していないつもりでも、出していたのでしょう。

 軽い右カーブの上り坂のところで、前方からトラックが迫ってきました。気がつくのが一瞬遅れ、ハンドルを大きく切ってしまいました。トラックは避けることができましたが、
車はスピンし、一回転して、路肩を乗り越えようとした瞬間、ガキンという音で止まりました。

 「あー、助かった・・・」
 雪はどんどん降っていますが、このままでは車は動きません。
 車を降りてぶつかったものを見ると、雪に囲まれていましたが、親子が刻まれた地蔵さまとそれを取り囲んでいる祠でした。
 あー、そういえばこの辺であの親子を降ろしたよなあ、と気がつきました。
 でも、そんなことより、車をなんとかしなくてはいけません。うまくしないと車輪は雪の深みに嵌ってしまい出られなくなります。そうなると、車の中で雪の一夜を過ごす羽目になってしまいます。

 外套を脱いで後輪と雪の間に入れ、ゆるゆるとタイヤを空回りをさせないようにバックし、なんとか車を道に戻すことができました。
 ほっとして祠の方をみると、その後ろ側は下り斜面になっていて、祠がなければ、車はズルズルと斜面をずり落ちて数十m下の沢に落ちていたかもしれません。
 アー、助かった。
 祠とそこに積もった雪で助かったといってもよいかもしれない状態でした。

 祠は、と見ると車がぶつかったところも欠けていなさそうです。祠を覆うように積もった雪があったからでしょうか。車の方はバンパーにほんのちょっぴり傷がついている程度でした。
 雪はさらに激しくふってきましたが、二度と同じ事が起こらないようゆるゆると運転しながら帰宅しました。

 春になり厚岸に行く用ができました。あのスピン以来はじめての44号線です。祠へお礼のための花を用意して、車を厚岸方面に走らせました。

 しかし、しかしです。祠がないのです。あの親子地蔵も祠もないのです。この辺だと思うところを何度探しても見あたりません。
 その後、幾たびか44号線を通りましたが、見つかりません。そこをよく通る人に尋ねても、「そんなもの、ずーっとないよ」と言われるだけでした。

 ・・・・・でも、バンパーに傷はあったのです。

 北海道旅行に行かれる方で、釧路から44号線を通って厚岸・根室方面に行かれる方。
 釧路町から厚岸町になる町境あたり、そう、軽い上り坂を登り切って、ゆるやかに左に曲がり下りはじめるあたりの右側です。
 よく注意して見て下さい。そして、祠があったら、私に教えて下さい。

ある新聞記事を見て

 昨日から朝日新聞で連載されている小さなルポがあります。
 「アジアの街から」・・・・だったかな。
 そこで紹介されているのが、ボルネオ島のサンダカンです。

 39年前の夏、宮古から乗った材木運搬船が一ヶ月の航海の後に着いた港町です。マレーシア連邦サバ州にあります。
 、「ボルネオに行くのなら読んでおけ」と父に手渡された山崎朋子さんの「サンダカン八番娼館」の舞台の、サンダカンです。
 キナバル山に登るために、貨物船で北ボルネオまで行ったのですが、幸いサンダカンに着きました。「サンダカン八番娼館」を読んで、ぜひ、現地に着いたならば訪れてみたいところがありましたので、ほんとにラッキーでした。

 サンダカン八番娼館に出てくるからゆきさんたちのお墓です。
 明治時代の日本が貧しかったころに生まれ、こんな遠い異国でひっそりと亡くなり、だれが訪れるわけでもないところに葬られる・・・・。朽ちかけたお墓を前に、呆然と佇むしかできなかったことを憶えています。

 2ヶ月後帰国したのですが、父の知り合いという人が「ボルネオの話を聞かせてくれ」ということで、食事に招待してくれました。
 その人は、ボルネオに従軍し大勢の戦友を現地で亡くしたそうです。

 明治のからゆきさん、昭和の兵隊さん、戦後の山登りの学生・・・・。
 いろいろボルネオに行った(あるいは連れて行かれた)目的は違います。
 現代では、オランウータンの見学のために、サンダカンに日本人は訪れます。

 ほんのちょっぴりの歴史を見るだけで、日本がこんなにも変わったことを思い出させてくれます。
 ・・・・朝日新聞に載っている写真のお墓・・・新しそうです。
 
 

晩秋の十勝平野にて

ここに書こうかどうしようか、ずいぶん迷いましたが、思い切って書きますね。

私の大学時代の話です。
大学時代に山岳部だったということは、前に書いたことがありますね。
あれは4年生の晩秋のことですから、昭和43年の11月だったと思います。
獣医師の国家試験の勉強もなかなか進まず、気分転換に、山登りにでかけました。

然別湖(しかりべつこ)ってご存じですか。東大雪にあるのですが、その湖の入り口にふたつの山があります。東ヌプカウシヌプリと西ヌプカウシヌプリです。
そこにいくと十勝平野を大きく展望でき、気分転換をするにはちょうどよいと思ったのです。どちらの山にも道はありませんが、雪でクマザサのブッシュこぎも酷くないはずで、なんといってもそのころのヌプカウシは、羆のあまりでないところでしたから、気楽な山行をするにはうってつけと考えたのです。

 天候は晴れで、西ヌプカウシヌプリを登りました。山行は順調でしたが、途中で昼寝したのがたたり、タッチの差で帰りのバスに乗り遅れたのです。然別湖・帯広間のバスは、一日に朝夕2本しかないのです。帯広に帰るためには、17〜8km離れた麓の鹿追(しかおい)にまで歩いて行くしかありません。北海道のまっすぐな道をトボトボ歩くことになります。

 晩秋ですから、日は早く暮れていきます。最終人家に着く頃には、すっかり陽は落ちて、夜の闇が私の周りをとりかこんでいました。北海道の農家は数kmおきにあるので、めったに灯をみることはありません。急ぎ足で歩いていますから、寒くはありませんが、独りで細長い道を歩くのは、なにもなくてもちょっと気を張っているものです。

 ふと気がつくと、ずーっと向こうの木立の中に灯が見えます。農家とは違う光りです。そういえば、いつの間にか、歩いている道路に沿って線路が続いています。
あー、拓鉄かと思いました。北海道拓殖鉄道です。砂利道を歩くより、線路を歩く方がよほど楽だし、時間を考えても、そろそろ、鹿追の手前の瓜幕(うりまく)にもうすぐ着くころです。さっき見えた灯りは瓜幕駅の灯りかなと思いながら道を急ぎました。

 線路の先は、やはり瓜幕駅の駅舎でした。しかし、灯りはいつの間にか消えていました。駅舎の中に入って、時刻表をみると最終列車はもう行った後でした。覚悟はしていましたが、ちょっとがっかりです。
 「仕方ないなあ、腹も減ったし、メシでも喰って今日はここで寝るか」
 例え一日の山行きでも、非常食は何食か持っていますし、寝袋も持って歩きます。駅舎の中は、風も来ないので、泊まるには十分です。
 さっそくラジウスに火を起こし、インスタントラーメンを作って食べました。食べ終わり、体が暖かくなってきました。寝袋の中に入ってると、いつの間にか寝てしまいました。

 翌朝、「兄さん、兄さん」という声で眼が覚めました。オジサンが顔を覗かしています。
「こんなとこでなにしてんだ?」
「エッ、鹿追まで行くのに疲れたんで、駅舎を借りて休ませてもらいました」といいながら、ふと周りを見渡すと、そこはコンクリートの欠けた土台があるだけで駅舎はありません。いそいで立ち上がって昨夜歩いた線路を見ると、枕木だけが横たわり、雑草がずーっと遠くまでまっすぐに生えているだけの、線路跡でした。

「ここ、拓鉄の・・・」
「そんだけんど、ずいぶん前に廃線になって、線路も取っ払って、駅舎もぜんぶぶっ壊したよ。鹿追から新得の間だって、この夏に廃線になったべさ」

 北海道拓殖鉄道



 写真は、十勝平野ですが、瓜幕付近ではありません。新得付近です。

夢から覚める頃

 旭川・帯広の旅の回想も、終わりに近づきました。

 あの旅が終わって3週間です。今ではすっかり日常に引き戻され、あたふたとした日々を送っています。しかし、歩くスピードがちょっと遅くなったのは、あの旅のおかげかな。





 日高山脈も帰る日の夕方に見えただけだけど、ま、無くなるもんじゃなし、また来ればいいか。 
 サホロ岳、チロロ岳、ピパイロ岳、芽室岳・・・・と続く山並みの向こうに沈む夕陽を見ていると、ずーっとずーっと昔からこの眺めだけを見て来たような気がして、不思議な気持ちになりました。

 


 じゃ、明日から「住まいの話題」に・・・・デキルカナ?

青春の蹉跌

 で、この日は打ち合わせが終わったところで、すごい夕立rainがありました。せっかくテレビカメラをセットしたのに、みなさん、カバーするのが大変でしたよ。

 その夜、大樹から来てくれた友人と飲みましたbeerbarbottle。奥さんが運転手になってくれて・・・わざわざ、来てくれました。ホテルの近くの飲み屋さんには友人と顔見知りの義兄も来てくれて、一緒に飲にましたbarbeerbottle

 友人たちと別れてふらふらとホテルに帰ると、ロビーで番組スタッフがペリカン首、イヤ、雁首そろえて打ち合わせをやっているではありませんか。



 この写真がそのときの光景に似ているってわけではありません。旭山動物園で写したもの・・・というだけです。他意はありません。



 このカピパラもそのひとつです。けっして、会議疲れの姿ではありません。

 それにしても、そんなところに酔っぱらいが混ざって、すみません。
 青春時代を思い出して、べらべらしゃべって すみません。
 司会の好本さんに、「先生の大学時代、ほんとに楽しそう」と言われました。
 確かに、思い切り楽しかったです。
 が、蹉跌もいっぱいあったんです。


大学の農場

 帯広畜産大学schoolには、校舎なんかが建っている並びに農場cloverがあります。

 


 大学の面積は、東○ドーム19個分とか言っていましたが、私、この表現が好きでありませんので、ここでは「なまら広い」ということにしておきます。

 


 馬術部の厩舎も馬場もあります。



 当たり前のことですが、馬horseもいます。

 久しぶりに、牧草cloverやサイレージの匂いを嗅ぎました。

 こういうところにいると、う〜〜んとノビをしたくなります。深呼吸もしたくなります。
 で、ビールbeerを飲んで、昼寝sleepyもしたくなります。

 ・・・・・イヤ、私は、番組の打ち合わせに来ていたのですbell

帯広畜産大学



 次の日の番組の収録のために、収録会場である大学にいかねばなりません。
 私は、いつもの番組(NHKBS2「ペット相談」)のメンバーと打ち合わせをするだけでよいのですが、NHKのスタッフは会場作りをしているはずです。

 写真は、大学の正門です。
 ただ、ショックだったのは、大学へのバスがほとんどなかったことです。大学正門まで行くバスは、一日3・4本。頻繁にあるのは、一番近いバス停で、歩いて10分かかると聞いたとき、????でした。
 学生がみんな大学の近くに住み、その上、ほとんどが自動車を持っているからだとか。
 われわれの時代は、寮生以外はほとんどが町に住み、バス通学であったわけですが。
 ということは、学生は街まで飲みにいかないってことか?最終バスに乗り遅れて、みんなでわいわいいいながら大学まで1時間以上歩いて帰る・・・という光景はもうないのか・・・。
 確かに、酔っぱらっての凍死の心配はないだろうけど・・・・・寂しいなあ・・・。



 この写真の左側に、その昔は木造2階建ての寮が三棟建っていました。冬なんか寮の中を歩いているだけで、洗ったばかりの頭髪が凍るというところでした。教授たちだって、寮に飲みにきて、窓から落っこちた先生もいたよなあ。下は雪が積もっているから大丈夫だけど。・・・・あ、私、寮生ではありませんでしたが、別荘代わりに使わさせていただいておりました。



 私の入学時には本館も木造でした。
 校舎が、内地の学校のようにせせこましく建ってないのがいいです。せっかく広い土地があるのだから、ゆったりと建てればいんです。
 ということで、帯広畜産大学の学生にとって自転車は必需品ですね。

電子レンジ用駅弁?

 どうしょうか迷っていたんですけど・・・・思い切ってUPします。

 富良野駅で買った駅弁です。



 ビールも買ったし、さあ、喰うぞ とはりきって駅弁のフタを開けようとしたら、
写真左赤いところに、「お弁当をレンジで温める際には中の玉子を取り出して温めて下さい・・・」と書いてアルではありませんか。
 なんだ、この弁当、レンジで温めないといかんのか、でも売店のオバサンは暖めてはくれなかったし、そのそぶりも見せなかったぞ、この列車の中に電子レンジがあるのか、まさか、・・・
 と逡巡していて、さらに読み進むと「特に卵に気をつけろ・・」
 なにこの卵は生なのか・・・?

 まあ、レンジはなさそうだし、冷めたままで食べるしかないな・・・と



 食べました。・・・・味は・・・ノーコメントです。卵は温泉卵風。

 文面には気をつけて欲しいなあ。電子レンジがないと食えないような書き方はしないでね、オネガイします。

いよいよ帯広

 根室本線が帯広に近づくと十勝鉄道が並行して走っています。通称、カチテツです。
 


 のんびり鈍行に乗っても、着くところには着きます。
 帯広駅は、私が一番最初に着いた駅舎からいえば、何回も変わりました。



 今は高架になっていますが、そのころ(昭和40年4月)は、木造の駅舎で駅前には石炭を運ぶ馬車が行き来していました。
 駅に降り立ったとき、駅前はまだ舗装が完成しておらず、黄色い風が吹いていました。まるで西部劇のシーンを見ているようでした。その風は馬糞風と呼ばれる風でした。

 その後、私も建設に参加した(バイトしただけです)駅舎、帯広を離れた後に建てられた駅舎、高架になってちょっと東に移動した現在の駅舎という具合に変遷しました。四十数年で4つめというのは、ちょっと回転が早くないかい・・と思いますが・・・。ひょっとして、私は記憶違いをしているのでは・・・と思います。
 前に来たときに見た駅舎は、現在の駅舎であり、出入り口が違っていただけ?かもしれません。でも、今回見た駅とぜんぜん印象が違うんだけどなあ。

 写真は、駅前にある温度計を写しました。冬用に立てたのでしょうが・・・。
 駅前はさびれましたね。どこの地方都市に行ってもお目に掛かるシャッター通りです。大型店舗が郊外にでき、駅の反対側が開発され、大型店やホテルが建ち・・・、という具合ですから。

十勝平野

 狩勝峠を降りてきて、新得(しんとく)に着きます。
 続いて、十勝清水。十勝清水の次は羽帯(はおび)ですが、珍しいというか可哀相というか残酷というか、鈍行でも羽帯に止まらないのがあります。羽帯の人、立つ瀬ないですよね。



そうそう、駅名が書いてある看板のそばに立っている鏡が、ワンマンカー用バックミラーです。

この駅は御影(みかげ)ですが、御影はよく降りた駅です。



駅から徒歩2時間のところに、剣山(写真)があり、ふもとには寝泊まり自由で使い放題の無料の山小屋もありました。ちょっとなにかがあって、山に行きたい・・・なんてときには、重宝しました。
 また、肥育牛の大きな育成牧場がありましたが、そこでアルバイトをした友人は、馬に乗って牛を追い掛けて、ローハイドの気分に浸っていました。

 写真は、除雪車です。

狩勝峠2

 狩勝峠を通るときに、いろいろなことが頭をよぎりました。

 昭和40年4月、大学に入学するために、根室本線を汽車に乗って、狩勝峠の下の狩勝トンネルを通ったのですが、それは現在通るところとは、違うところです。
 新狩勝トンネルは、昭和41年10月に開通しています。
それまでは、今の根室本線とは比較にならないくらいループを描いて、曲がり曲がりしながら、十勝平野に下りていきました。


 4月だというのに、まだ冬景色で、汽車に乗ること24時間の旅ですから、ほんとうに日本の端っこの方に来たんだ・・・という感慨で一杯でした。

 落合の次に狩勝信号所があり、十勝の新得(しんとく)に入る前に、他にも数駅あったのです。

 旧根室本線を実験線として使っていたのは、昭和50年代までだそうです。
 あのあたりの景色は、もう一度見たいものです。たぶん、国道38号線を利用すれば、垣間見ることはできるはずです。

狩勝峠

 富良野の方から帯広方面に行くとき、狩勝峠を越えます。石狩と十勝の間の峠ですから、狩勝峠。根室本線は、新狩勝トンネルがあります。今から40年前は、狩勝トンネルでしたが、今は、新狩勝トンネルを通ります。そのため、線路も昔と微妙に異なります。
・・・・・昔の線路は、実験に使ったりしている・・はず・・です。

 幾寅の次は落合です。写真のように、なんとも侘びしい雰囲気ですが、ずーっと昔からこうですから。こういうところの四季もなかなか風情があります。



 トンネルを抜け、牧場や林の中を十勝平野に向かって下りていきます。


根室本線

 美瑛駅前で1時間くらいのんびりしたあと、再び富良野線に乗ります。富良野まで約40分です。

 学生時代、富良野の駅舎で何回か寝たことがあります。昔は、どこの駅舎でも寝かせてくれました。なぜ、富良野の駅舎で寝たかといいますと、十勝岳合宿のために、最終の鈍行の夜行で帯広を発ち、富良野で下り、美瑛への乗り換えの汽車を待つためだったのです。乗り換えといっても始発ですから、その間は、駅にいるしかありません。
 そのころは、駅舎にはストーブが焚かれ、他にも始発を待つ人たちがいて、酒を酌み交わしたり、ぼそぼそ世間話をするなど、暖かな雰囲気が深夜の駅に立ちこめていました。
 このことは、全国どこにでもみられた風景だったと思いますが・・・・・

 富良野から帯広へは、根室本線に乗ります。
 現在では、札幌 → 帯広・釧路は、トマムの方を通る石勝線を利用しますが、私には、昔、通った根室本線に乗る方がよほどうれしいことです。
 今の根室本線は、たまに鈍行が通るくらいですが、狩勝峠を鉄道で越えるには、絶対こちらがお奨めです。

 


 富良野から布部(ぬのべ)、山部(やまべ)、下金山、金山など、もの悲しい駅を通り過ぎます。

 線路沿いには農家が点在しています。このあたりの風景は、40年前とまったく変わっていませんね。写真は、山部駅の駅前にある、駅前旅館ならぬ「駅前農家」です。その向こうには、芦別岳が見えるはずですが・・・・曇っています。

 金山湖を横に見ながら、もうすぐ幾寅(いくとら)か・・・・



 あれっ、おかしいな、幾寅のはずだが・・・・。
 えっ、幌舞(ほろまい)? そんな駅あったかなあ、憶えてないなあ、
 昔の記憶さえも遠のくとは、ちょいとまずいぞ〜 と思っていたところ



 あーーー、鉄道員(ぽっぽや)のロケにここを使ったのか、・・・・ということでした。

 おそらく観光客でしょう、数人の人がいました。
 本来なら、「間違えるだろ、なんということをするんだ」とちょっと怒ったりするのですが、
 健さん(もちろん高倉の健さんですよ)のことですから、「ま、いいか」ということで、当然のことですが、何事もなく汽車は発車しました。

 ・・・よけいなことですが、浅田次郎の小説も好きです。

 

のんびり

 旭川から美瑛までは、30分ちょいです。

 写真は、美瑛のひとつ手前の「北美瑛」です。
 駅舎は冬のためにあります。もちろん、夏も利用しますが。
 駅員さんは当然いません。ディーゼルカーもワンマン運転です。先頭車両が止まるところにバックミラーがあり、運転士さんが後ろを確認できるようになっています。
 私が、旭川駅で乗るときに、最後車両のドアが閉まっているので、ドア付近にあるボタンを押していたら、先頭車両から運転士さんが顔を出して「こっちから乗ってくださ〜〜い」と言われました。・・・この辺ののんびりかげんもよかったです。

 美瑛では、次の富良野行きが来るまで1時間弱ありますので、美瑛駅でのんびり過ごしました。駅前に農協経営のコンビニがあり、早速ビールを買って、駅前のベンチでグビリbeer
 美瑛から、タクシーに乗ってお花畑を見てふたつみっつ先の駅まで行くことも、チラッと頭をよぎりましたが、タクシーはノンビリに反するものですから、そういうことはせず、駅前でビールを採用しました。


 ただ、残念だったのは、曇っていて十勝岳連峰が見えなかったことです。
 美瑛駅の正面には美瑛岳、美瑛岳の北にはオプタテシケ山、美瑛富士、南には十勝岳、上ホロカメトック山、富良野岳、前富良野岳という懐かしい山々がならんでいるのです。ま、目をつぶれば見えるか・・・ということで、あきらめました。

 学生時代、美瑛から白金温泉(しろがねおんせん)までバスで行き、そこから望岳台というところまでスキーで登り、一軒宿の吹上温泉まで下る、あのちょっと厳しい思い出深いルートは、今やしっかりした道路で結ばれているといいます。



 写真の花は、美瑛駅前で撮りました。
 タクシーも駅前には並んでいました。・・・・・運転手さん、期待させてごめんね。apple


 

さあ、鈍行の旅

 帯広に入るのに、旭川からはとても時間がかかります。
 急ぐ旅であれば、時間によっては、飛行機airplaneで旭川 → 函館 → 帯広 とか、鉄道trainでも 旭川 → 札幌 → 帯広 というとんでもないルートをとらざるをえないのですが、4時までに大学に入ればよいということだったので、正規のルートの鈍行での旅をすることとしました。

 まず、旭川から富良野線に乗って、富良野まで行きます。



 朝、9時29分発富良野行きというのがあったのですが、目が覚めてから、いろんなことがとんとん拍子に進み、旭川駅に8時半には着きました。調べてみると、8時39分発美瑛行きというのがありましたので、それに乗ることにしました。

 美瑛は、大学時代の山岳部の冬山強化合宿の拠点である十勝岳周辺への最寄り駅でなつかしく、途中下車するのもよいと、美瑛行きに乗り込みました。



 

動物園のこと

 実は、十年くらい前まで、動物園はあまり好きなところではありませんでした。
 20年ほど前、久しぶりだし時間もあるし、獣医師になってから来たことないし・・・と思ってブラッと入った動物園で、肥満のヒョウや常同症のゾウ、皮膚病の○○など、獣医師としての眼で見てしまう、という経験をしたからです。くさい、きたない・・と世評と同じ印象を持ったということもありますが、動物園の動物をみて楽しくなかったから、です。

 その後、ヒトと動物の関係学会という学会を立ち上げ、動物園関係者にも入会してもらい・・という過程の中で、動物園関係者と親しくなりました。彼らも試行錯誤していたんですね。

 今、世界的に動物園が動物の単なる展示場所から、大きく変化しようとしています。ただ、それは動物園関係者の意識や動物行動学の発達という動物側の事情だけでなく、エンターテインメントの技法、大きなガラスの水槽が造れる技術といったような、社会全体の変化も必要だったのだと思います。

 旭山動物園は、動物のいきいきした行動を見せるということで、成功しました。しかし、みせ方ももっと工夫できると思います。横浜のズーラシアなんかは、高いところから動物をみせることができるのだはないかと思いますし、ゾウのいるすぐ下まで行けるようにして、ウンコが落ちてくるのを見る・・・なんていうのもよいと思います。もちろん、ゾウのウンコに触れるとか、さまざまな体験を子どもたち(大人ももちろんですが)にさせると、強烈に印象に残り、あとあとまで、そのことが良い影響をあたえるのではないかと思ったりもします。

 私の体験ですが、「小学1年のときに興福寺の五重塔に登った」ということは、強烈な印象として残っています。

 テレビで見て全部分かった気になるというのが、一番困ったことです。ガラス越しであってもすぐ目の前で見ることは、それよりもっと印象深いでしょうし、さらに、さわったり、臭いを嗅いだり・・・ということの方がより一層、記憶に残るでしょう。頭の中の記憶だけではなく、肌を通して憶えることができると思います。

 


 このシロサイの角に、ふれることもできますよ。
 飼育員が、小さなツアーを組んで、サイの解説をしていましたが、参加した子どもたちを、角にぶら下がらせていました。やりたかったなあ。
 それはそうと、その解説を盗み聞きしたところでは、なぜ、シロサイがシロサイといわれるようになったかというと、Why rhinoceros ? といったのを、White rhinoceros と聞き間違えて・・・ということですが、似たような話は、よくありますね。確かに、白というより灰色ではあります。

旭山動物園 オランウータンの巻

 旭山動物園で、おそらく一番の人気は、オランウータンの綱渡りならぬ鉄柱わたりでしょう。
 ○時にすると案内に書いてありますので、その時間前から、鉄柱の回りはそれはもうすごい人人人。
 「エサで釣っているんだろう」という人がいるかもしれませんが、エサは渡り終わってから与えています。最初にどういうテクニックを使ったのか・・ということを考えるより、単純に、オランウータンは高いところがあれば登りたがる、と思った方がよいですよ。樹上生活者ですから。







 高いところから、下を見下ろすのも好きなんでしょうね。
 人間どもを見下ろしながら、ゆったりと渡って行きます。

 オランウータンの渡りを、どの動物園もやりたかったのでしょうが、落ちたときのことを考えて踏み出せなかったんでしょうね。
 リスクをとってやって成功した典型例でしょうね。

 それはそうと、オランウータンって、オランが人、ウータンが森 というマレー語です。
 

旭山動物園 白熊コーナーの巻

 シロクマが自分に向かってダイブしてくる・・、そういう経験は動物園ぐらいでしかできません。北極で経験したときは、生きて帰れないですから・・・。



 ダイビングのあと、シロクマはしばらく泳ぎます。



 こちらにダイビングしてくるのは、水面にエサ(人の顔)が出ているようにシロクマ側からは見えていて、それを捕るためだそうです。北極で水面に顔を出すのはアザラシですが、そういえば、アザラシと人って、似ていますよねwink
 しかし、ダイブしてもいつもエサは手に入らないのだから、今では、人のキャーッツというのがおもしろくなって、やっているかも・・・というのが私の仮説です。



 水槽をずーっと観ていると、シロクマと一緒に水の中にいる気分になれますよ。


 

旭山動物園 猛獣コーナーの巻

 旭山動物園は、ネコ科の動物を間近に見せています。マスコミでよく取り上げられるのは、写真のようにヒョウが頭の上に寝ているところですね。
 ネコ科の動物は、昼間は大体が寝る時間ですから寝姿の観察になるのは仕方ありません。旭山動物園は夜の見学ツアーもありますから、それに参加すれば動くネコ科動物が見られると思います。



網越しの写真は、どうもおもしろくありませんね。



 ライオンのあくびを撮るのに、5分待ちました。5分ですからチャンスは結構あります。寝ているからといって、さっさと通り過ぎると、興味ある行動がみられないことになります。
 このライオンは、眠くてあくびをしているようですが、ネコ科やイヌ科の動物は緊張をほぐすためにあくびをすることがあるって・・・ご存じですか。

no

やっと、旭山動物園

 念願の写真の縮小がうまくいってをうまくやってもらって、ここに載せることができるようになりました。
 旭山動物園 → 富良野線 → 根室本線 → 帯広畜産大学 と、のんびり路線を紹介していきたいと思います。

 旭山動物園は、今までの動物園のイメージを変えましたね。
 園の職員も、行動展示という言葉を使って来園者に説明していましたが、動きのある動物をみるのは、見ている方の気持ちをちょっとわくわくさせます。
 飼育頭数は少なくて、2〜3時間あれば、一通りみることができます。
 入園料580円は、市の施設とはいいながら、安いです。年間何回入園しても良いという
年間パスポートは、確か1000円ちょっとだったと思います。それに子どもはただだそうで、
入園料をあてにしなくてもよい、というのはすごいことです。

 まずUPするのは、寝ているトラですが、ガラス越しとは言いながら、トラが目前で寝ている姿はあまりお目にかかれるものではありません。檻が目の前にあるのとないのでは、ずいぶん違います。







 大きな足の裏が印象的でした。